黒い花火、文字、批評、思い遣り、悪意

Chim↑Pom*1の事件から数日が経過した。その後、広島では中国人アーティストの蔡國強による「黒い花火」がパフォーマンスされた*2ことに関連して、いくつかのブログで述べられてきたことを読んでみた。
とりわけ参考になったご意見は以下の二つ(「昆虫亀」のほうはどうも知人の知人くらいの距離感の方のようなので、そのうちオフラインでお会いする機会もあるかも知れません。そのときはどうかよろしくお願いします)
http://d.hatena.ne.jp/conchucame/20081026/p1
http://d.hatena.ne.jp/sk-44/20081027/1225064294
どちらも流布されがちな言説に対する批評としてはある程度は冷静な指摘を含んでいると思います。
「昆虫亀」の議論で私が同意できるのは、ダントーの「芸術はアートワールドとの関係において規定される」という議論を参照するところと、今回のチンポムの事件が「藝術作品として判断されているのではない」「芸術制作が金科玉条にはならない」「芸術としての判断は作品の完成を待ちたい」という点。
いくつか(読み返すたびに増えるのですが)意義を提示したい箇所があったのですが、今回は議論をしたいがために紹介するのではないので省略します。
「地を這う難破船」のほうはアカデミックな意味ではもう少し緩く、しかし切れ味鋭く「芸術」について解説されており、拝読して視界がかなり明快になりました。ただ、原理的に考えるならば「artistは自分が面白いと思うことを勝手に追求してまったく構わない」というご意見には俄かには首肯しかねると思いました。それはartを特権化しうるという前提においてのみ可能な考え方であり、実際問題として、artはそこまでの社会的地位ないしは認知を得ていないということは無視すべきではないと思うからです。「近代以降の社会は〜」と書いていらっしゃいますが、現代日本は少なくとも、そして実際の世界はどこにも、そのような理想的な社会は実現されていないと思うのですが、いかがでしょうか。
社会的には、そしてその限りでの倫理的側面からみても、artistもまた「いち個人」として暴力的に凡庸に均されてしまう場合がある。これは日本の戦後民主主義の在り方の問題かも知れないし、近代的な理想的なart観に対立する現実として批判が待望されるところではあると私は考えており、非力ないしは意味不明ではありつつも、チンポムの活動にはartの特権性を暴力的に獲得ないしは奪還しようという可能性あるいは意志が認められるのではないかと思っています。そしてそれを意図的かつ明示的に行わず、不穏なままにしておく自由をも暴力的に標榜しているのではないか、というところがむしろ極めて好ましいとすら思うのですが、、、。

とはいえ、それはそれ。近代的な装置としての美術館におけるキュレーターの役割というのはチンポムの存在如何に関わらず、つまりチンポムの勉強の過不足に関わらず、「学芸員が作家の意図について説明すべき」というのは同意します。その限りで、今回チンポムの代表が謝罪をしたのは滑稽でありまたうそ寒い感じがしました。ただこれも現実問題なのですが、そもそも近代化が達成できていない日本において、公立の美術館の学芸員にそれが果たして、いやむしろそもそも期待できるのかどうかという懸念があり、ここで理想論を語るのもちょっと違うような気もしたのでした。

ちなみに今回のチンポムの事件については、以下のような報道もあり、もっと美術館側の責任も問われて然るべきだとは思います。
「ピカッ」は学芸員助言の可能性 芸術家集団謝罪

なお、蔡國強の「黒い花火」はアリでチンポムがナシとされがちな状況ですが、実はそう読むべきではなく、むしろ結果としてはどちらも得るものがあったのだとみるべきなのではないかと私は考えています。

というのは、簡単に言って、蔡國強はチンポムとの比較において「アートワールド」の古典に近い立場が明確にされたし、チンポムは蔡國強との比較において、パフォーマンスの意義が再確認されるように思われるからです。蔡國強がチンポムとの比較で得たものについてはこれ以上の説明は不要でしょうが、チンポムにおいて再確認された意義というのは何か。

まずチンポムがかつて行ったパフォーマンスとして、「サンキューセレブプロジェクト 『アイムボカン』」というものがあります。これは借金をして渡った先のカンボジアの現地の人々と交流しつつ、セレブが買いそうな高級ブランドバッグ(チンポムメンバーの私物)やセレブ風のポーズをとったチンポムメンバーの石膏像などで地雷原の地雷を爆破撤去し、爆破された残骸をチャリティーオークションで売り払うというもの。これが広島氏現代美術館の賞をとり、今回の事件で撮影された素材を展示する予定の展覧会が企画されたわけですが。
興味深いのは、カンボジアにおけるチンポムは、異文化において平和を訴えるという意味では、アーティストとしての社会的な「格」は異なるものの、広島において「黒い花火」蔡國強と相似しているというところです。
「黒い花火」と「ピカッ」との相違点はいくつもありますが、それが外国人によるものなのか、自国人によるものなのかという違いは大きなもののひとつだと言えるでしょう。アートにおいても、外国人による戦争言及は好意的に受け取られる傾向が強いということだと言えると思います。
外国人による戦争言及については、村上隆の「Little Boy」展も想起されます。「Little Boy」展の図録に収められた文章において村上隆岡本太郎の「爆発」を原爆の爆発に結びつけているようですが、この展覧会を戦勝国であるアメリカのNYで開催しました。いわば敗戦国からの問題提起だったわけです。だがその村上隆も国内での評価は微妙なネジレを伴っています。村上の問題提起的な態度は、おそらく依然として日本国内では話題になっていない。ニュースなどでも議論の俎上には挙げられていないという印象が私にはあります。寡聞にして知らないのですが、村上隆は「Little Boy」に関連する展覧会を日本国内で行ったでしょうか?私の知っている村上隆市民感情に繊細な配慮をする人物なのでそのようなことはしていないのではないかと思うのですが、しかし「市民感情」なるものはそのような尊重を当然のものとするべきなのでしょうか。村上隆の、一見ポップな作品の表面を剥いで見えてくる下世話な攻撃性の、その更にもう一枚下に潜む、この凡庸な「善意の知識人」ヅラが透けて見えるような気がするとき、私は彼の作品を不快に思うわけですが、その点でチンポムはやはり信頼したくなる存在です(その信頼もまた、予め裏切られもせずはぐらかされる運命にあるわけですが)。
また、今回の「ピカッ」が反発を招いた理由として、チンポムが「東京から来た芸術家集団」だったという点も無視できません。チンポムのメンバーに被爆者やその家族がいた場合は、今回のパフォーマンスはまったく意味が異なってくるからです。東京の金持ちの子息が道楽で行った所業だと思われている向きもあるようです。このあたりは情報が不足していてよくわからないのですが。

上記のような「所属する地域と発表する地域」の問題のほかに相違点としては、蔡國強の作品が色と花火によるものだったのに対して、チンポムは空に文字を書いたということが挙げられます。色彩の欠如としての単なる黒を花火として表現することと、飛行機雲で文字を書くことは、どちらも刹那的なもののように思われ、これは奇妙な一致を見せてもいます。しかしおそらくチンポムの作品は完成形としてはビデオアートの形態をとるものと思われるので、蔡國強のように花火の形式で完結し、そのまま失われるものではなかったでしょう。対してチンポムの作品が完成していれば、それは美術館に展示され、そしておそらく、ネットに流れ多くの人の眼に触れることになったと期待できたのです。

チンポムが飛行機雲で「ピカッ」と「書いた」ことは、文字表現という明快かつ簡潔な表現形態をとったことで議論設定の効率が極めて高く、それに対して、(これもかなり明快で簡潔ですが)「黒い花火」はイマイチなのです。このイマイチさが、モチーフになった広島の原爆という惨事に対して適切な慎ましさを伴っていたとは言えるのかも知れませんが、その「慎ましさ」は、しかしそれだけをもって評価されるべきものではないと私は思います。*3

文字による表現、あるいは言語による表現のもつ、ある意味の「強さ」について、実は先日早稲田大学で行われた早稲田文学の10時間連続公開シンポジウムで、「メディアの現在」をめぐるといいながらももっぱら(紙の)「文芸批評」ばかりが議論されていたことにも関連して少し考えることがありました。というのは、一定の長さをもった言語表現というのは、それだけ伝達効率が下がるので、相対的に便利なコミュニケーションツールが技術革新に伴って普及すればするほど、やはり相対的に地位を下落させていくに違いないわけです。東浩紀もかつて述べていたように、文学的なものと政治的なものとが「教養」という点で通底している(と見なすことができた/見なされる場合が多かった)時代は、情報インフラの発展に伴って衰退していくことは否認できても無視することはできない事実でしょう。ここで重要なのは2点。情報処理能力の工学化による最適化と、その過程を楽しむ方法の開発と維持です(ちなみに私には両方とも不足しているので本当に困っています)。もっぱら前者か後者のどちらかだけが賞揚される状況は危惧すべきだと私は思っています。この現状は、当面の都合によるためかと思われるのですが。
http://www.nicovideo.jp/watch/sm4992912
その意味でチンポムは非常に効率的な伝達の回路を選び、およびそこに乗る情報を伝達させる圧力および速度ないしは加速度の生成のノウハウ(話題の呼び起こし方など)を持ち、さまざまな理由で抑圧されている「楽しさ」を開発し続けているという点で、きわめて文学的かつ政治的であり、ほんとうにまったくもって要注目だと言わざるを得ないのではないかと思うわけです。経済効果はあまりないみたいだけど。
いわば美術批評的に言うのならば、チンポムが利用したメディア(空を基底材として、飛行機雲というデータにする/スキャンダルとしてニュースに取り上げ流通する)の有効性を論じ、かつまたその「面白さ」と政治性とを問うべきではないでしょうか。
あとこれは最後に蛇足。まさか意図的ではないと思うのですが、現状のチンポムはワーク・イン・プログレスと言える状況にある。







なお、私は作品の雰囲気的に(笑)ドイツのアンゼルム・キーファーがけっこう好きなんですが、今回のチンポムの騒動に関連して彼の名前を挙げている人が見当たらなかったのにも驚きました。キーファーの重厚長大と、チンポムの軽快浅薄とは鮮やかに対比をなしていると思うのだけれども。

ちなみに不謹慎な「アート」を自称して一部で話題の*4駕籠真太郎の個展が銀座のヴァニラ画廊から江古田のフライングティーポットに場所を移して開催されるらしい。チンポムのパフォーマンスの意味不明な不気味さを知ってしまうと、既存の「アングラ」路線の延長にある駕籠のマニエリスム的な戦略性の欠如が際立ってしまい、不謹慎を標榜している割には安全性が高いなあと*5いう気もしてくるのだが、マニエリスムにはマニエリスムなりの当然の美的価値があることも否めないし、そもそも映画マニアでもある駕籠の映像作品も多数上映されるようなので、この機会に是非足を運びたいと思う。まあ、不謹慎というよりは、並べて表記されているナンセンスということばのほうがしっくりくるのだろう。本来ナンセンスと不謹慎とは相容れない評価なんじゃないだろうか。
ナンセンスと不謹慎と言えば、ユーモアと反体制のアート文脈における活動で注目しているイルコモンズが、今回のチンポムの事件についてまったくの沈黙を守っているのが私個人としては不思議だ。個人的な事件に巻き込まれたということで忙しくて言及できないのかと思っていたら、雨宮処凛関連の麻生太郎邸宅見学ツアーの逮捕劇には言及しているようなのでそういうわけでもないらしい。チンポムもカラスを集めて首相官邸や国会議事堂をツアーするパフォーマンスをしていた筈だが、両者に関連性を見いだしていないということなのだろうか。あるいは考え中ということ?私自身、労働問題や反体制運動についてイルコモンズさんのご意見に励まされたり参考にさせていただくことも多々あるため、今回の無言の意味が知りたくてたまらない。
http://vice.typepad.com/vice_japan/2008/10/exhibition-in.html
それはそうと『バンギャル・ア・ゴー・ゴー』は是非読まなければ。
[rakuten:book:11921994:detail]
[rakuten:book:11921995:detail]

*1:「チンポム」の「チン」と「ポム」のあいだの矢印が↑から←になっている。これを深読みするかどうかも、傍観者の態度表明になってしまうだろう。とりあえずは単純な反省ないしは陳謝の意を率直に表明する意図があるとみる場合と、深読みを要請する何がしかの戦略性を含んだものであるとみる場合とが考えられる。きわめて単純で従順な意図があると考えた場合でも、事態はまだ複雑だろう。というのは、今回の蔡國強による「黒い花火」に対する風当たりの弱さからも容易に理解されるように、チンポムによる「ピカッ」が今回のような強い嫌悪感を呼び起こしたのは、彼らの今までの活動や「ピカッ」という空に飛行機雲で描かれた文字表現そのもの(そんなものがあるとして)だけではなく、おそらくその「ふざけた名前」を伴ったまま原爆に言及したことが原因だと考えることができるからだ。このことにチンポムのメンバー各位やその周辺の関係者が気付かないとはちょっと考えにくい。あえて彼らがそれに気付かなかったという可能性を考えるのも無意味だとは思わないが。この「ふざけた名前」をほとんどそのまま継続して謝罪表明をしたことは、「当事者性」を可能な限り維持しつつ部分的に名称を変更することで「反省の意」を表現しているとみることができる。それは今回の事件についての「反省」を反映した作品を今後制作し発表することが「責任」のとり方であるという考えを背後に想像させる。あるいは、部外者からはいかに「ふざけた名前」という印象を与えようとも、チンポムのメンバーたちにとっては譲ることのできないポジティブでシリアスな意味づけがこの「名前」には込められていて、矢印の方向にも主観的な意味づけがあるのかも知れない。むしろ敢えて矢印の方向を横倒しにしていることに何らかの戦略性を読み込むなら、これは想像するだに恐ろしいことではあるのだけれど、「Chim←Pom」は「Chim↑Pom」とは別のレベルの「名前」である、つまり「Chim←Pom」は「Chim↑Pom」によって表現されている虚構にすぎず、そもそも謝罪自体が虚構的なパフォーマンスにすぎない、少なくともこのような読解を読み込ませるために矢印を意図的に横倒しにして、通常想像されるような「アーティストによる不祥事に対する謝罪」という状況のイメージをズラしているのではないかと考えることもできる。もうここまでくるといったい何のためにそのような面倒かつ反社会的な行動をとっているのか理解に苦しむのだが、もしサイコパス的にチンポムが嗜虐的な性向を持っているのだとしたら、自己満足的にこのような筋書きを用意している可能性がないとは言えない。そもそも動物愛護団体や過激な市民団体による陰謀史観や、「近年の若者の無神経さ」を憂う文脈に沿って考えるなら、チンポムがこのような不快な筋書きを描いている可能性も否定できないだろう。ただこのような深読みをする私自身が、ありもしない状況を無為に憶測して悦に入るというサイコパス的な態度に陥っているような気すらしてくる。それは清涼院流水舞城王太郎などのコジつけ推理小説のバカバカしさを笑えない事態でもあり、これはこれで、バカバカしいながらも真摯な分析が要請される場面なのではないかとも思うところ。この矢印の件については、どうやら単なる誤植の可能性が高い模様。ただ誤植であったとしても、もはや矢印ひとつでここまで私がほとんど無意味に深読みしてしまう事態自体が、チンポムの強みだと思っているため、恥ずかしながらここはこのまま残すことにしました。なお、Chim↑Pom名義での謝罪文は無人島プロダクションのサイトhttp://www.mujin-to.com/toppagej.htmlに掲載されています。

*2:重要なことではないのだが、「パフォーマンスされた」という表現には不快な違和感が伴う。なぜ「パフォームされた」ないしは「performされた」と書くことに抵抗があるのだろうか。そう書いたほうが意味の通りとしては無駄がないような気がする。それはそれでまた余計なニュアンスが呼び込まれるからなのだろうけれども。

*3:「慎ましさ」といえばチンポムの件を友人と話していたときに話題に上がり、そういえば、と思った事件がありました。原爆ドーム前でダンスを踊り、その様子を動画に撮影しネットに流したということで踊っていた女子高生二人が「謝罪」した事件です。もっぱら「パンチラ」が話題になっていましたが、その軽薄な無邪気さが、世間の常識の前に謝罪を強要されていくさまはやはり不気味なものです。

*4:とここまで書いて思い出したのだが、チンポムと鳥肌実のパフォーマンスを比較するのは興味深いことかも知れない。いちおう自分用のメモとして。

*5:市場合理的だという意味ではむしろ戦略性も高いのかも知れないが