明日5/1に六本木ブレッツで開催される星野太さん主催のイベントにDJとして出演することになりました。
トークとDJの企画なので僕も何かしゃべらせてもらおうと考えています。

個人的なブレスト&考えていることの整理も兼ねて、以下にその内容を書き出しておきます。

「いかにしてともに生きるか」
これはイベントのタイトルの直訳です。ロラン・バルトの講義録からとられているということで、その文脈やフランス語のニュアンスとかも紹介できればいいのですが、正直に言うと残念ながら僕はこれをきちんと読んでいないので、それは叶いません。

そうことわった上でですが、このタイトル、字面上問われていることだけではなく、言外にもうひとつの謎が秘められていることに気づくでしょうか。「いかにして」だけではなく、「誰が誰と」「何が誰と」「何が何と」あるいは「誰が何と」ともに生きることについて問いかけられているのかがはっきりしていない。単に2者間の関係だけについて問われているのでもない以上、組み合わせは無限に広がっていくでしょう。

DJということでこの根本的な問いに答えようとするなら、まずはDJと聴衆ということになるかも知れません。だけど問題はそれだけではない。僕がいつもDJについて考えるのは、再生する楽曲同士をいかに共存させ互いに互いを参照させるか、ということです。もちろんそれだけでもない。「DJと楽曲」「楽曲と聴衆」「聴衆と聴衆」、あるいは「聴衆と非聴衆」が「いかにしてともに生きるか」という問題はどんなDJにだってついて回ります。

明日の企画の主催者である星野さんは、かつて「DJの使うミキサーを戦場として捉えてみる」というようなことを言っていました。戦場というと僕はいつも自分の祖父が中国で戦ったときの話を思い出します。祖父は、中国で「敵」を殺したくなかった、と僕に話してくれたことを思い出します。なぜ人は、他の誰かを殺したくないのか。この問いに答えることができれば、「どうして人を殺してはいけないの?」という単純でありがちな質問に対して答えることもできるでしょう。

僕は、人は他人の体を死なせてしまうことについては、結局そんなに抵抗を覚えないのではないかと思います。人は、その人の記憶あるいは記憶の可能性を殺すのが嫌なのだというのが僕の仮説です。誰かを殺すということ、それが意味するのは、相手の記憶をそこで終わらせてしまうこと、自分の記憶と相手の記憶の交差の可能性をそこで終わらせてしまうことに対する拒否感がそこにあるのではないか。すべてを記録して外部化することができない以上、ある人が死ぬということは、その人の最終的な記憶が誰にも伝えられないまま消えてしまうということにほかなりません。

さて、戦場としてのミキサーに話を戻すなら、そこで殺されるものは何でしょうか。それは、そこでプレイされる楽曲の記憶です。そこで再生される楽曲は、別の楽曲との文脈、その場その場の聴衆の前に呼び出され、恣意的な加工を享け、殺される。記憶としての楽曲は再生されることによって終わり、終わり続け殺され続けることで、ゾンビとして場に蔓延していく。

ゾンビとして再生され、戦場で殺され続ける楽曲を前にして、それらと、DJと聴衆と、そして非聴衆は、「いかにしてともに生きる」ことができるのでしょうか。ちなみに具体音楽とDJとの最大の違いは、この再生される状況・再生者と聴衆との関係に対する意識の有無だと言えると思います。再生されたゾンビとしての楽曲(あるいは楽曲の断片、楽曲未満の断片)が徘徊し、聞き手の音楽的な記憶を蹂躙しようと迫ってくる戦場を前にして、どうしたらいいのか。粉砕された記憶の弾幕を避けるように身を踊らせるしかない、というのが差し当たりの回答になります。なんだよ、けっきょくダンスか、と言われたらそれはそうかも知れません。でもそれは決められたリズムに合わせて決められた動きをなぞることではない。それは殺され再生されるゾンビとしての楽曲にあまりにも同期しすぎている。それはともに死ぬことに過ぎない(それもまたひとつの生き方として認めざるをえないのかもしれないけれど)。

弾幕を掻い潜るダンスは、身を踊らせると言いながら、傍目には微動だにしない棒立ちに見えるかも知れない。僕が言及したいのはブレインダンスです。戦場はミキサーだけではありません。ミキサーの構造をインストールした人ならば、互いを殺戮する記憶と音響の交錯を体を動かさずとも認識することができる。それは視覚的なイメージの乱舞として表現すればとりあえずわかりやすいものかも知れませんが、それにとどまるものではありません。

そもそも僕は視覚的・聴覚的という二項対立や、いわゆる「五感」と表現される諸感覚の相対的な自立性をあまり支持していません。錯覚やイリュージョンと呼ばれる現象を思い出せば容易に理解されるように、諸感覚は記憶や意識、また感覚器官そのものの働きによって、互いに影響を与え合っているのです。ブレインダンスが踊られるのは、まさにその諸器官が互いに影響を与え合っている状況のただなかです。

ところで「マイマイ新子と千年の魔法」、見てきました。幼さや無邪気さに対する手放しの信頼については僕はいろいろと疑義を呈したいところなのですが、それでも、やはり、何でもないものや「何もない」と思われるところに、歴史や記憶の断片を見出して活気を与え(再生させ)、それと戯れ、また新しい記憶を世界にバラ撒いていこうという態度は非常に共感するところがありました。

記憶とそのバラ撒きといえば、今回の出演者でもある、先日「現代詩×サイファー」の企画を成功させた佐藤雄一さんが詩を定義して「詩とは、それを聞いた人や読んだ人を詩人にしていくもののことだ」と言っていた。詩が、人の心に碇を降ろすように留まり、世界の認識を変えていき、その人の使う言葉を詩的なものにしていってしまう=人を詩人にしていくものなのだと僕は理解しています。

例えば言葉は、何かの断片や痕跡を保存し時間を乗り越え、人々に感染し、その生活を変えていく代表的なものだと思うのですが、それは言葉だけではない。

駄目だ、時間切れだ。

とにかくこれを流したいです。