アニメ『化物語』最終回まで観た感想

生きていて、信念が報われず裏切られることや、欲望にまけて自ら誰かを裏切ることや、回復がついに叶わないような無数の絶望を繰り返し経験することで、既得の経験に視界を奪われてしまうことがある。自己嫌悪と無力感に苛まれ、すべてを棄ててしまい、再び歩き出すために身を起こすこともできず、ただうなだれるしかないと思い込むことがある。そういう状態が終わることなく続いて、自分は本当にもうダメなのだと信じ込んでしまう。

映画監督に限らず、いわゆる人間の身の丈を超えるモノを作ろうとして四苦八苦する人ならば、誰しも襲われるであろうこの経験。あの絶望の時間。大仰な正義や、崇高な達成を想定しないまでも、たとえばただ自分なりの幸福を追求しようとするような、ありきたりな発想でも、そこに挫折があれば、真面目な人ほど、驚くくらい容易に、真っ暗な闇のなかに、あるいは何も見えないようなホワイトアウトのなかに、落ち込んでいく。

自分だけでは絶対に解決し得ないような困難に直面して、その困難にすべてを奪われているように思えるとき(あるいは自分ですべてを棄ててしまって何も手許に残っていないように感じるとき)に、想定外の何かにすがろうとして「手を差し伸べる」こと。それをゴダールは『ヌーヴェル・ヴァーグ』で描いた。

その手をとる者はいない「かも知れない」。しかしそこには、「絶対に誰も私の手をとらないだろう」という独断的な諦めを越え出る契機がある。「かも知れない」つまり、「誰も私の手をとらない」という予断が正しいかどうか、「私」には絶対に「知ることができない」。この絶対に諦めることができない、救済の可能性が重要だ(もっとも、だからこそ救済が訪れないことは繰り返し経験される必要がある)。

『ノートル・ミュジーク(われわれの音楽)』と題された作品において、ゴダールが強調していた「切り返し」の技法について、非対称な二者をモンタージュすることに注意が喚起されていたことを思い出す。『軽蔑』において無理解と孤独を鮮やかに描いたゴダールが、それでもなお他者との関係性=社会について関心を持ち続けていることを思い出そう。「われわれ」とは、誰と誰のことなのか。

たとえば、ゴダールにおいて、ともすればもっともわかりやすい例は、ほかでもないゴダールその人と、その被写体とのことだろう。あれの圧倒的なシーンを、ゴダールはどうやって撮影するのか。彼は「事件」を待つ。到底フィルムに捉えることが難しいような奇跡的な瞬間を彼は待つ。ゴダールが撮るから奇跡が起こるのではない。ゴダールは奇跡を迎える準備を怠らないから、奇跡的なショットを捉えてフィルムに固着させることができるのだ。その忍耐を容易に真似することができないからこそ、ゴダールの作品が奇跡的なのだ(『フォーエヴァー・モーツァルト』のあの圧倒的に感動的なシーンを思い出して欲しい。繰り返される「ウィ」)。

「光は何故あるの?」「そこに闇があるからだ」。ゴダールは闇を耐え忍ぶ。だからそこに光が訪れる。「かも知れない」の闇に浸された身で、光を捉える。経験の蓄積が幼く光に過敏に反応する動物や子供にゴダールが関心を寄せるのは、つまりその光を捉える契機が、彼らにおいて溢れるばかりになっているからだ。風景の中に蓄積された出来事を描く子供が、歴史を歓待していると言うのは、視界を光で満たし、写生のなかにその光を固着させるその行為を説明するためではなかったか。

『フィルム・ソシアリスム(社会主義的なフィルム、もしくはフィルムにおける社会主義)』というタイトルの新作に、ゴダールはたびたび「つがい」の動物を登場させた。互いに身を寄せ合うほかには、人間のそれとは比較にならないくらい稚拙な構築しかもたない「言語のようなもの」でコミュニケートするしかない子供と動物たち。そのコミュニケーションの在り方をゴダールは愛している。だからこそ、ゴダールの映画で描かれるどの二者も、痛ましく互いを求め合い、感涙を呼ぶような官能的な手つきで互いに触れ合う。(蛇足だが、ゴダールのカメラが、誰か、あるいは何かを写し出すときにも、この優しい感触がある)

かつてフロイトの社会制度理解を批判した吉本隆明は、男女間・家族間に「対幻想」を見出し、さらに「対幻想」とは異なる幻想として「共同幻想」論を唱えた。共同幻想とは例えば国家のような社会的制度のことである。

フロイトの男女の性差に基礎を置く性愛主義的と、性愛主義に立脚したままま社会制度を議論することとのあいだには、原理的な跳躍があり、そこに充分な説明がない、と吉本隆明フロイトを批判した。だが、その原理的な跳躍をラカンが補う。ラカン記号論的な視座をフロイトの議論に持ち込む。フロイト流の男女の性の区別と、それに立脚する家族主義を、男性・女性・家族という記号にいったん解体してから語りなおすことで、フロイトを読み変える。

ラカンを経由することで、吉本隆明の言う「対幻想」と「共同幻想」は、吉本が規定した隔絶を融解して結びつく。ここで従来型の男女の類型や家族の類型を呼び戻してしまうなら、話は再び俗流フロイト主義つまり無為に保守的な家族主義的な国家観・国家主義的な家族観が復活するだろう。だがそれはラカンが許さない。

ベルサーニが『フロイト的身体』で論じるように、人はまずジェンダーを欠いた状態で生まれてくる。男女の区別や家族の類型は、人が「大人」という社会制度を内面化する過程で学習する幻想だ。吉本の言う「共同幻想」「対幻想」「個人幻想」がすべて発達過程で学習するものである限り、子供や動物の段階つまり「人間社会を学習していない者」は、「共同幻想」も「対幻想」も「個人幻想」もない。より精確に言うならば、彼らには「共同幻想」も「対幻想」も「個人幻想」も、それぞれ隔絶を持たないまま経験されているものである。

学習されるものとしての「共同幻想」「対幻想」「個人幻想」の経験、あるいはそれらが互いに隔絶を融解された状態の経験、その只中での希望や挫折の経験、子供や動物はそれらの経験を生きている。

吉本は『共同幻想論』において「共同幻想は経済活動とは切り離されたものである」と述べているが、これもラカン以降は許されない。ラカンマルクスが指摘した貨幣のフェティシズムを恐らく視野に入れたうえで、あらゆる男女の間に性的に流通する貨幣概念を議論に組み込んでいる。「対幻想」と「共同幻想」との隔絶が融解している状況にあっては、あらゆる男女間を流通する貨幣が「共同幻想」に流れ込み、当然、それに影響を与える。(年長の女性の豊満で美しい胸元に煌く金貨に触れる少年を『フィルム・ソシアリスム』において描くゴダールも、このことを意識していないとは考えにくい)

ところで、吉本隆明において「共同幻想」と「対幻想」を隔絶するものは何か。吉本は言明していない。一般的に言って、「対幻想」と「共同幻想」を繋ぎとめているのは、社会制度としての「結婚」である。フロイトは太古の類型化された共同体において実現されていた一夫多妻制を推定する。そこにおいては絶対的な父がすべての女性を独占してしまうため、息子たちが反乱を企てるという類型が提示されている。フロイトが想定しているのは、「父の結婚」によって「息子たちの結婚」の可能性が否定されている状況である。ここには既に「結婚=性的対象の独占」という制度つまり「共同幻想」が見てとれる。

共同幻想」と「対幻想」との隔絶が融解している状況においては、この制度は揺籃する。この揺籃こそが精神分析が対象とする神経症の原因である。男女の性差、家族という制度はただひとつの、結婚という問題に収斂する。そこでは、子供を生み育てる生殖と共同体運営の問題、そしてどのようにして言語を育み、どのようにして言語を伝達し、制度を維持し、制度を発展させるのか、という問題が展開される。

流動性が高まった現代社会において、特定の誰かと共同体を作り何かを育てていくというプロジェクトは、常に離散の可能性にさらされていて、そのことがいっそう神経症の複雑化を促している。そこには貨幣経済の影響が、織り込み済みのものとして、当然のように常に現れてくる。誰とどのように共同体を形成するのが、経済合理性が高いのか。貨幣によって数値化されることによって、人はことあるごとに清算を求められ、あらゆるタイミングで反省と最適化を行い、自己批判を促し、自分が共同体の一員として選び育てている相手の誰かを値踏みすることが可能になる。

人は誰かとともに時間を過ごしているとき、その誰かと一緒にいることの合理性、あるいは特定の誰かと一緒にいないことの合理性を(暗に数値化を求められながら)問われている、と言えるだろう。その合理性は、相手が原理的には予測不能な対象である以上、常にある種の「ギャンブル」である。人生を勝ち越し、幸福な一生を過ごすため、人はこのギャンブルを勝ち抜かなければならない。

他者の他者性が問われるのは、このギャンブルの射幸性が重要だからだ。特定の相手がまったく自分を幸せにしてくれないと想像せざるを得ない場合、つまり「ギャンブルが割に合わないと思われる」とき、その相手は共同体のメンバーとして相応しくないと判断され、ときには共同体から排除される。別の特定の誰かが自分を幸せにしてくれると強く期待できるとき、その相手は共同体のメンバーとして歓迎されるだろう。だが他者がもたらしてくれる幸福度は、原理的にはまったく計算不可能なものなのだ。だから人は自分の経験と学習により、他者と他者との関係を値踏みする。

この「共同幻想」と「対幻想」とが経済合理性を媒介にして融解している状況にあって、ギャンブル的な性格が露骨に現れてくるのが日常的に使用されている「好き」という言葉の、ある特殊な用法である。「私はあなたといるときが一番幸せなのだ」という排他的で明示的に序列付けを意識した表現において「好き」という言葉が使われるとき、要は「私はお前に自分の時間を賭けている」と言っているのである。

映画やアニメ、広告写真やグラビア写真が環境を形成している状況で生活している者にとって、そこに映し出されている他者の図像はきわめて魅力的なものだ(この表現は順序が逆である。本来、きわめて魅力的なものとして、他者はそこに映し出されている)。そこにどのような他者が映し出されていようとも、ある者がその他者の図像を眺めているのは、その他者といっしょに時間を過ごすことが合理的だと判断しているからにほかならない。

生身の人間と共に時間を過ごすときも、いわゆる「二次元」の対象を呆然と眺めているときも、そこに「好き」という言葉の特殊な用法が使われるならば、そこには自分の時間を無為に過ごすか、幸福な時間を得られるか、という一か八かのギャンブルが行われている。

「二次元」の対象と時間を過ごすときには、話は複層化する。メディアごしの「対象」=キャラと過ごす時間は、刻一刻と過ぎ去る時間に重ねて、同じキャラの複製と過ごす時間を享受している別の誰かとの未来の時間が織り込まれている。キャラ消費が当たり前になっているような高度にメディアが浸透した社会では、生身の人間が相手でも原理的には異ならない。「共同幻想」において承認されている要素、例えば容姿の美しさ、気立ての良さ、聡明さ、あるいはその相手との関係の円満さといった要素が、自分の承認欲求を満たす評価を社会から引き出す可能性も期待されている。

だからこそ、魅力的なキャラが登場する、高度に練り込まれた物語は何重にも肯定される。たとえば西尾維新原作・シャフト製作によるアニメ『化物語』は、作中で主人公が「誰とともに時間を過ごすか」という問題を常に衝きつけられつつ、その問題を曖昧に回避し続け、結果的に「みんなと幸福な時間を過ごす」というスタンスを貫こうとする。。これに対して、主人公を独占しようとしながら、やはり「みんなと幸福な時間を過ごす」ことの合理性の前に挫折するヒロインたちという構図を悲喜劇的に描くという意味で、物語鑑賞の快楽(作品の巧みな語られ方を味わう)と、優秀な作品を鑑賞した別の誰かとの共同体の形成を期待させ、同時に自らの問題として作中の葛藤を味わいながら、かつその葛藤と自分の生身の生活とが隔絶されていることに安心することができるという、複層的な楽しみを与えてくれる。

アニメ『化物語』を鑑賞する者は、モニターの前に座る自分と、作中人物へ没入する感情とに分断される。モニターの前の自分は、作品の解釈や味わいを別の誰かと共有する快感と、モニターの外にいることの安心感を保証されたまま、作中で交錯するキャラたちの感情を味わう快感を存分に堪能できる。これはよく作られた物語ならば、必ず認められる性格だといえるだろう。だがアニメ『化物語』が特に魅力的なのは、この作品がテーマにしている「特定の誰かとの関係を優先すること」と「みんなで幸せになる」という二律背反の緊張が実に巧みに描かれているからだ。

声と文字とたくみな視覚表現と実写の挿入によって、アニメ『化物語』の味わいは、単に複層的なだけではなく、その複層性を横断し、モニターの前にいる鑑賞者が作中に投影している感情を何度も自分の「リアル」な感覚として引き受けさせられるように作られている。

アニメ『化物語』最終話で主人公が口にする「助けて」という言葉は、物語世界の設定上「すべてを受け入れられ、自由に誰とでも恋愛ができるからこそ、誰とも恋愛という限定的な関係を結ばず、みんなで仲良く過ごす」という特権に甘んじて揺らいでいた主人公が、誰も助けに来ないと思われる絶望的な状況で「他者の想定外の行動」に敢えて「賭ける」行為である。結局のところ、ご都合主義的に主人公は救われるわけだが、主人公が「助けて」と口にした瞬間、鑑賞者は自らの経験と照らし合わせて、あのタイミングがいかに絶望的なものなのかを思い出し、あらためて自分のことのようにその絶望を経験する。その絶望の「リアリティ」が強ければ強いほど、そのあとの救済が非現実的できわめて虚構的であり、それゆえにアニメ『化物語』という作品の賭け替えのない特殊性が浮き彫りになる。