2008-09-01から1ヶ月間の記事一覧

ポップとパンク

ポップとパンクは類似している。 ポップ・アート(およびポップ・アート以降のアート)に代表されるファクトリー形式の制作というのは、近代以前の徒弟制度的な制作スタイルと同じであり、それは「現代的であることが同時に中世的である」というパラドックス…

工学主義的建築における思考

東浩紀がコメンテーターとして出席されるようなのでメモ。行かないと思うけど。 建築夜楽校2008 テーマ:グローバル社会における「建築的思考」の可能性主 旨: 商業施設のインテリアでは、什器や商品のレイアウトによって購買客の動線や視線をコントロールし…

「ディスクール、フィギュール」の翻訳が

上記で引用したエントリによれば、合田正人によって進められているらしい。刊行が実に楽しみ。

大きな物語について

「大きな物語」について、ちょっと考えれば誰でも思い当たりそうなのに、意外に勘違いされていて、もしかしたら私が間違っていたのかと思っていたんだけれども、別のところでも同じようなことを言っている人がいたらしいのでメモがわりに引用しておく。要す…

お金を燃やすアート(続き)

art

昨日の続き。 お金を燃やすということで、ダダカンとKLFの話題を出したんだけど、その後、元ネタにした知人の日記のコメント欄でセルジュ・ゲンズブールもテレビの生放送で500フラン紙幣に火を点けていたことを知った。 最後に手で火を握り消すところとかカ…

お金を燃やすというアート

知人のmixi日記で、お金を燃やしたアートということでダダカンとKLFが紹介されていた。そのKLFのお金を燃やすシーンが、ダークナイトのあのシーンを見たときにも感じた眩暈を思い出させてくれる。 何故、燃える貨幣が眩暈を催させるのか。金が燃えているとき…

現代的な「フレーム」とは

まだ考えている最中なのだけれど、伊藤剛的なマンガのフレーム、ボニゼール的な映画・絵画の対比におけるフレーム(あるいは額)はそれぞれ批判を免れないだろう。 まず伊藤剛的なマンガのフレーム概念は、それは「マンガに限定することができない」という消…

『歪形するフレーム』読了

70年代以降の、低迷していた「カイエ・デュ・シネマ」をダネーとともに牽引した編集者であり映画評論家でもあるパスカル・ボニゼールによる映画評論集。『映像―運動』『映像―時間』刊行した頃のドゥルーズが、ボニゼールにこの本をまとめるよう勧めたとのこ…

ガラパゴス的な文化

http://fladdict.net/blog/2008/09/galapago.html ↑を読んで、ガラパゴスについてちょっと考えた。技術の話とはいっても、狭義の電子工学的なものではなくて、マンガやアニメなどのより「文化」的なものに関する問題。はてなではガラパゴス関連が盛り上がっ…

『アンチ・オイディプス』二十五日目

第三章 未開人、野蛮人、文明人 第十一節 最後はオイディプス 家族が社会野の外におかれるということは、家族にとって最大の社会的機会でもある。なぜなら、それは、社会野の全体が家族に適合することが可能になる条件だからであるからである。個々の人物は…

今日買った・借りたビデオ

買ったもの 『エクスプローラーズ』ジョー・ダンテ監督 50円 『short6』クローネンバーグ他 短編集 50円 『エクソシスト3』ウィリアム・ピーター・ブラッティ監督 50円借りたもの 『エレファント・マン』 『X-ファイル セカンドシーズン 2』 『スクール・…

K様

k様として知られるkagami氏の最近の日記が凄い。以前からフェミニスト的な視野をロリコンがどのようにして引き受けられるのかを論じていたりして興味深く思っていたけれど、精神的および経済的な困窮の極致にあって、なんとか生き延びようとしている姿に慄か…

白井聡『未完のレーニン』も読んでいる。

プロレタリアートとブルジョワジー(労働者と資本家)の対立から「国家」が生まれ、この第三項たる「国家」によってプロレタリアートとブルジョワジーの直接的な対立がなくなること。ブルジョワジーは国家から経済的な支配力を保証され、逆にブルジョワジー…

『作業日誌2004-2007』を読んでいる。

今日は2005年まで読み終わった。あと2年。 知人がブログで「これくらいのことはみんなやってないのか」と言ってた。 確かにこれが賞を貰うのはなんか違うんじゃないのかと思うけど、それも含めて、現在の狂った状況を浮き彫りにしているとは思う。ちなみに賞…

エストニアの現代音楽

アルヴォ・ペルトがとくに有名だけど、レポ・スメラという作曲家が割と好き。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AC%E3%83%9D%E3%83%BB%E3%82%B9%E3%83%A1%E3%83%A9 複雑性を孕んだ単純さとポップさがいい。でももう故人か。 Sym 5/Music for Co/in Mアー…

水声通信vol.23林・鈴木往復書簡

複製がになってもあまり多くを失わないような、移動可能なイメージ、そうしたイメージが存在するのではないでしょうか。しかしそれは、エロティックな要素が欲望に働きかけるといっただけのことでもないはずです。 そこかしこに独立した場面が展開していて、…

『精神と記号』より

映画に固有の有効性は、その前シニフィアン的な象徴的諸要素やその非シニフィアン的な諸要素―視覚的形姿、色彩、音響、リズム、顔貌の描線、言葉等といったものの連鎖や動き―に依存しつづける。幾百年、幾千年も前から、表現手段としてほとんど変化のない言…

『アンチ・オイディプス』二十四日目

第三章 未開人、野蛮人、文明人 第十節 資本主義の表象 夢において、リオタールは、きわめて美しい文章で、そこで働いているものがシニフィアンではなく、むしろその下にある形象的なものであり、それがイメージの配置を生起させることを指摘している。この…

『アンチ・オイディプス』二十三日目

第三章 未開人、野蛮人、文明人 第九節 文明資本主義機械 精神分析は、みずからは認めることを拒みながら、じっさいには経済的-金銭的依存関係のシステム全体を自分の扱うそれぞれの患者の欲望の核心に登録し、剰余価値を吸収する巨大企業をみずから組織して…

『歪形されたフレーム』、絵画と映画について

主に今回はショットと運動について。 たとえばゴダールの『パッション』では、ロマン派やバロックの巨大なタブローが、部分的に活人画の形態で再構築され、カメラや(その強制された不動性に対して震えたり、反抗したりすることで動かずにはいられない)モデ…

『歪形するフレーム』より

絵画の巨匠のタブローを模倣する写真は、その模倣に失敗するが、その失敗は絵画の単純で不完全な模倣とは区別されねばならない。ある意味で、その失敗は、機材によって、望まれプログラムされたものなのである。それはバルトが「プンクトゥム」と呼んだ屑を…

R.Walserと言えば

去年はこんなことをここで書いたのが見つかった。 http://d.hatena.ne.jp/negative-naive/20070222

メタルとクラシックとのリスナーがかぶってるというのはアメリカのRobert Walserが『Running with the devils』で1993年に指摘してたような気がする。数量的な研究ではなかったけど、いまさら英語圏の研究者が「発見」して驚くことじゃないだろうと言いたい…

村上隆について

<想像>的で鏡像的で、不純なるポップ*1 20世紀のロザリンド・クラウスに抗して・添いつついまから約20年前の1897年のロザリンド・クラウスは、そのさらに20年前にあたる1967年にマイケル・フリードが発表した「芸術と客体性」をめぐる討論会にコメントを寄…

マイケルジャクソンとスリラー

そうそう、ゾンビって、アフリカ大陸から連れてこられた黒人奴隷が中米で発達させたと言われる「ブードゥー教」から援用されたイメージなので、それをマイケルジャクソンが活き活きと演じているのはある種の文化批評的なパフォーマンスなのよ。あとそれとは…

なんだか気が滅入ってきてたのだが、戸田恵梨香よりむしろPerfumeの踊りの方がきつい - ハックルベリーに会いに行くで貼り付けられてたマイケル・ジャクソンの動画を見て元気が出てきた。上に引用した文章には大半の部分は納得ができるし、それでとりあえず…

『存在論的、郵便的』を数年ぶりに再読した

やー、なんか感動した。東浩紀って超すげえ。近々もう一回読み直してレジュメを作ります。 『葉書』は原書も買わないとな。存在論的、郵便的 ジャック・デリダについて [ 東浩紀 ]ジャンル: 本・雑誌・コミック > 人文・地歴・哲学・社会 > 哲学・思想 > 西…

『パッション』読了

言うべきこと、書くべきこと、なすべきことは、それが言われたり書かれたりなされたりすることが当然であるとか強制されてやるとか、そうではないような機会にこそ「行われるべき」なのだ(ろうか)という議論。もっとも、そのように要約することは拒まれて…

現代の広告の役割について

ところであまりに愚直なんだけれども、その「図」に関するある意味での最先端である広告の地平について、仕事のこともあるのでちゃんと考えてみようと思う。なお、http://homunculus.exblog.jp/8577645/を読んで刺激を受けたということもある。小規模かつ短…

シュルレアリスムと「図」的なもの

水声通信のシュルレアリスム関連の特集号を読み、「図」的なものについて考えを巡らせている。それは「壁の絵」(鑑賞の「場」と結びついたもの)と、「本の絵」(携帯性が前提されているもの)との中間にあって、「よりポジティブな」隠喩として鈴木雅雄が…