忘れるな、言葉は敵だ。

強烈な痛みは退屈に似ている。

悪の戦闘美少女。

愛する人を苦しませなければならないとしたら、そうすることでしか救えないのだとしたら?

博愛=虚構と現実の皮膜の解消=非人間的・破壊的=エロゲ的・ラノベ

執着=皮膜の維持=人間性の肯定=文学的・ドラマ的

走るのが苦手な人は諦めるのが得意。




「頭がいいように他人に見せかけたい」とか「趣味がいいように他人に見せかけたい」人が「好き」と主張したがる類の趣味というのがある、とかつて僕は思っていて、そういう趣味であることを隠そうとしない人に対して嫌悪感を持っていた。趣味性に対する無自覚を嫌悪していたんだと思う。同時に趣味性を自覚しうると自認している人はあまりに傲慢だとも思っていた。

最近はそういう客観視自体が不毛に思えてきて、むしろその不毛さに気付いていた人たちは偉いなあと思うようにすらなってきたんだけども

(ここで議論の位相が変わる)

頭の悪さや趣味の悪さ、自らの乏しさを恥じる必要がないと思っている人が羨ましい反面、恥じらいのような自他の境界を意識する感覚を持っていない人はその意味でも貧しくて面白くないなとも思っていた。劣等感を持たない人は退屈かも知れないという感覚があった。もちろんそれだけではないのはわかっていたけれども。

最近はようやく自分の頭の悪さを客観的に認められるようになり、また同時に金銭的にも教養的にも自分の程度が判るようになってきて、自分にも自覚しにくい乏しさがあり、その乏しさを自覚しにくいがゆえに得られる悦びがあることを認識するに至り

(ここでさらに別の位相に議論を移す)

上記したような感じで、ようやく最近になって自意識が形成されつつあるのは、面白かった物語を読み終えたあとのような寂しさがあるんだけれども、いままではその物語を読んでいたというよりはその物語の主人公そのままの葛藤というか、客観の位置に立てないが故の苦しみがあり、今はその苦しみからはやや解放されてきている。

ような気もしているが、実はこれはその苦しみに耐える精神力や体力をとうとう僕が失ってしまったことかも知れないし、あるいは単にこの苦しみ(と、この苦しみに耐えることから得られる悦楽)に飽きてしまっただけかも知れない。

ともあれ僕は最近落ち着いてきている。かつて羨んだ他人の精神状態に到達した気がする。他人の苦しみがまるで「かつての自分が経過したもの」のように見える。実際にはそうではないのに、まるで「その苦しみを経過した」ことで自分が得た解答が、他人の苦しみの解答にも成り得るような錯覚を抱いてしまう。これは危険だ。

だが実はこの危険性すらも、実は忌避しないでいいのかも知れないと思うようになってきている。我に返るといつも自分の態度の危険性に怯えるのだけれど、油断していると説教じみたことを口走っている。オレは何様なんだと恥じ入るとかそういうレベルの問題ではない。

苦しみというのは、誰にとっても一回性を帯びた反復不可能な絶対的な経験であって、苦しんでいる本人にとってすら、もちろん他人の誰によっても救済とか解決とかされることができないものであって、実はあらゆるもののなかで一番尊いもののような気すらしている。上記で僕が感じている危険は、この唯一の苦しみを陳腐かすることだという意味で忌避すべきものなんだと思う。

僕と君の苦しみは似ているね、いや一緒なんじゃないかな、とか言って共有してしまうことで、その苦しみの絶対性はどうしようもないくらい損なわれてしまう。苦しみそのものは、それなりに強ければ、あるいはあらゆる苦しみは、どうしようもなく損なわれたって、反復不可能だといったところで、さらに最悪なかたちで絶対に回帰してくるんだから、苦しみが損なわれることは危惧しないでもいいだろうけど。

僕が危惧するのは、苦しみを経験しうる貴重な瞬間を損なうことなんだけど、これうまく書けているだろうか。逃げ出したいような状況に身をおくことは幸いなんだろう。いちばん哀しいのは、逃げ道を探ることも、脅威を背にして走り去ることも諦めて、状況に同化してしまうこと、苦しみを受け容れてしまうことなんじゃないか。

どんなレベルでもいいから、困難をまずは歓迎すべきだ。それをバネに成長ができるとかそういう、目先を超えた話はとりあえずどうでもいい。その困難の味を嘗め尽くせ。痺れる感覚を愉しむしかない。自分がどこまで潰されているのかを追究するしかない。自分を否定するものの姿を見極めようとするべきだ。

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演技は、私見では、あらゆる営為が政治的であるという前提においてもなお、さらに再帰的に政治的な営為であり、再帰的に政治的な営為であるいわゆる「政治」よりも、再帰性が強調されているという点で、もはや、それ以上に政治的だと思っている。最近「劇場型」ということばが浸透してきているけれども、僕に言わせれば、政治はもともと劇場的だった。それが単に露呈してより意識されるようになってきているだけの話だろう。

では劇場とはなんなのか。それは営為を再帰させる場所だ。営為に対するアリュージョン。最近は妙にこの「アリュージョン」という言葉に惹かれる。メタファー(暗喩)よりも、このアリュージョン(引喩)のほうが興味がある。

隠喩と引喩を比較した論文でも探そうかな。