ひぐちアサの『ヤサシイワタシ』全二巻を読んだ。とても良い作品だったと思う。未読の人が多い気がするのでおすすめしたい。


拙い制作を続けざるを得ない人や、また周りに拙い制作を続けざるを得ない友人や知人をお持ちの人びとに強く奨めたい。


巧みな制作が出来て、また周りに制作に困難を感じている人がいない人には、もしかしたらなんら響くところもなく、この作品じたいも拙く思われるのかも知れない(この作品を拙いと判断するのは、極めて高い批評意識を持つか、見識が狭い場合だと思うけど)。



読体験に影響を及ぼすと思うので、未読のひとは以下を読まないで欲しい。ネタバレをしているから。今後も『ヤサシイワタシ』を読まないだろうなというひとか、既に読んだ人にだけ以下は読んで欲しい。



第一巻は主人公(三人いる主人公のうち、女性の一方:以下「ヒロイン1」)の、いわば「うわべ」が描かれ、読者に「こんなやつ、いるいる」とか「わたし、こんなかも」と思わせる。


第一巻は、それだけなら、ある類型的な女性をめぐるラブストーリーの域を出ない。それだけでも、この種の類型を扱う作品としては(未消化・未昇華な印象は拭い得ないとはいえ)すでに突出した深みを持っていると言えるだろう。


だがそれに安住しない危うさが既に第一巻に漂っていたように思われるのは気のせいだろうか。


物語の進行を妨げるノイズにも感じられるほどの「青臭さ」を漂わせる台詞が各キャラクターによって執拗に繰り返されるのも、第二巻を読んだあとでは、全体の抽象的な性格を強める意図的な反リアリズムであるようにも思われる。


あまりに説明的で、互いを規定しあうその過剰さの錯綜のなかで、ヒロイン1に惹かれた主人公(三人いる主人公のうち、男性のキャラクター:以下「ヒーロー」)とヒロイン1の恋愛は、瓦解ではなく、ほどけるように解消されていく。


第一巻で、巧みに就職の糸口を掴み、ヒロイン1の拙さを放置するヒーローは、第二巻冒頭でもヒロイン1を傍観し続ける。愛するひとの苦悩に距離を置き、ぬるま湯めいた痛みをそこはかとなく感じながらの傍観。その描写の甘やかさは同時に、読者のナルシシズム冷や水を注ぎ込む。葬式で切られるシャッター。


この過程でヒロイン1の、第一巻ではヒーロー(そして読者たち)に隠されていた過去をヒーローと読者は知ることになる。その「過去」も類型的なものだが、これによってヒロイン1はきわめて「マンガ内的な存在」になってしまう。ヒロイン1は死に、作品に利用される。


極端に抽象的な作品として、『ヤサシイワタシ』を反リアリズム的な作品であると見なすならば、こうしてヒロイン1の謎めいた生(リアル)を殺してしまう「過去」の描写は評価すべきなのかも知れない。でも単なる反リアリズムを賞揚すべき理由ならば、僕には、にわかにはわからない。


この種の過去……リアルな人々の「過去」を「この種の」と類型化して捉えることは避けたい(避け難い)が……を、自らの「現在」として生きている主人公(三人いるうち主人公のうち、女性の他方:以下ヒロイン2)が登場することで、 あまりに「マンガ内的な存在」になったヒロイン1は抽象的に救済される(具体的には呪いそのものと化す)。


自己像のうけいれがたい破綻、つまり世界と自己との排=自的な乖離、要するに「認めてもらえないこと」あるいは「公式の論理から脱落した存在として自分を見い出すことを強いられること」、それは通常は多分、幼少期から多くの人々が程度の差と性質の多様性こそあれ、何度か経験するものであろう。恋愛における振られること(「振る」ほうもまた、恋愛という世界認識における自己像を破綻させる)や、アスリートなどのように「記録」「明示されうるもの」に挑む(つまりそれらに打ち破られる可能性に直面する)こと、つまり受験生や、貨幣経済に汚染された日常においての、再生産され続け、しかし「現在」に対して常に遅延してどんどん滞納され積み重なっていく自己像、その反転したバリエーションとしての他者像、幻想の瓦礫あるいは残滓。その呪い。その重み。その巨大さ。その冷たさ。


例えばこの文章もまた読まれえず、読まれても必ず誤解され唾棄され忘れ去られる。「認められうる『いいこと』を選んで、それでも頑張って自己像を創りあげていくしかない」とヒーローは言う。だから彼は「それでも頑張って」いる人に「ヤサシイ」。この甘やかさが、逆転して読者に冷や水を浴びせるべく凝固して、タイトルを片仮名にしたのではないか。


ここにきてなお「それでも」と言って「頑張れる」のか、それとも認められない「自己」を是として生きながらえるのか、世界に溶け込む自己を自ら認めないとして自死を選ぶのか、文字にすれば簡単なこの三択だが、リアルには決断不可能な問いとして立ち現れるしかないものではないだろうか。


現実には常に保留され、仮決めの状態に置かれ続けるこの三択をつきつけられ、「ヤサシイワタシ」たちはどうするのか。


反リアリズムならではと言わぬばかりに、このレベルにおいてヒーローとヒロイン2は接近し、白々しいまでに軽快な恋愛劇が演じられ、それによってまるでヒロイン1の死を浄化しようとするかのようだ。だがしかし、その恋愛模様の「過去」として、片仮名に凝固したタイトルによって必ず引き付けられてしまう呪いが、白々しい軽快さのうらに逃れがたいリアリズムを縫い付ける。


呪いに満ちたリアリズムを裏地に縫い付けられてしか有り得ない反リアリズムとしては、『ヤサシイワタシ』は凡庸かも知れない。だがその凡庸さを明快な抽象的構造のもとに提出していることで、物語ることを深く粘り強く問いに付す。もはやリアリズムと反リアリズムは融合され、青臭い台詞たちのように、ただ読者に何かを感じさせるものになる。いわば良質なメタフィクションであろう。


リアルに呪われたメタフィクションをこそワタシは良質であると言いたい。