『ef-a tale of memories』をニコニコで見始めた。

アニメをニコニコとかで観ることにはいまだに背徳感が付き纏う。実際、どうにかしたいところである。

それはさておき(本当はさておけないのだが、しかたなく)、久しぶりに観たアニメ(まだ第一回を観たのみだけど)の感想は「新海誠以後」のスタイルだなということ。新海誠のあの過剰に叙情的な風景描写が、通常の演出を侵食してきている。もともとリアリズムに反撥があったであろうアニメーションならではの、「ありえない描写」が全編に亘っていた。いうなれば、従来のアニメ作品のオープニングのような凝った演出が、これでもかと言わんばかりにつめこまれている。まあ、第一回だから、最終回までの作品全体にとっての「オープニング」的な位置にあるという意味だったのかもしれないけど。

ちなみに新海誠が最新作『秒速5センチメートル』で主題としたのは「距離」という、主観に異質性をもちこむ要素であったのに対して、『ef』では「記憶」という、どちらかというと異質性をもちこまれた主観の反応が主題にされている。新海が距離に翻弄されつつも抗い、抗いながらも翻弄される主観を、叙情的に描くのに対して、『ef』はどういうスタンスを採用するのだろうか。

第一回を鑑賞した限りでは、過剰な演出が、まさに「異質性をもちこまれた主観」の経験するストレスを的確に表現していると思われる。極端に思われるかもしれないけれど、他者性を尊重するあまりに観客と容易な共犯関係を築くことができなくなっているゴダールの作品や、みずから他者の座に君臨しようとしている『キャシャーン』の紀里谷和明のような*1、苦悩が表面上に伺えないところが新海誠的あるいは21世紀的だといえるのかも知れない。

他者は、「ただそこに在る」のみであり、そのこと以上に尊重すべきものでもなければ、みずからその「場所」を占めることができるものでもない。正否や是非は別として、このような認識が新海誠以後のアニメ作品には伺える。この認識は、ゴダール作品や『キャシャーン』のようなスキャンダリズムを引き起こせない、良く言えば紳士的な態度であり、それゆえに憤慨し唾棄しようとする鑑賞者も出てくると思われる。他者に対して狂おしく胸を掻き毟られることなく、他性を傍観しうる立場に身をおくことの正否・是非については、これもしっかり考える必要のある問題だけれども、今回はその時間を作れなかった。

とりあえず、まったく無内容にも思えるこの文章だけれど、これから会社いかなきゃならないので、ここまで書いて放置しておく。続きを鑑賞してまた思うことがあれば続きを書こうと思う。とりいそぎ、他者性の放置と傍観とが、先日ようやく読了した『狼男の言語標本』における「埋葬」に似ている点、および、過剰な演出が、同書における「意味遡行(アナセミー)*2」が、マスメディアの発達、普及、定着、陳腐化した効果として招き入れられているのではないか、ということをメモしておく。

目下僕の関心は、最新の商業アニメが描く物語と、その物語で夢見られていること、目論まれていることを知ること。その前提と将来に、どのような苦しみや痛み、あるいは悦びがあるのか、そして、それを僕がどのように知ることができて、どのように利用できるのかということなんだな、、、。壮大すぎて付き合いきれるか自信が持てない。

*1:いずれにしても一部の、そして最終的には、観客と共犯関係を築いてしまうという点では、彼らも凡百の映像作家と差異はない。多くの観客に瞬時に共犯関係を容易に築けるかどうか、という点で、一部の映像作家は特異な地位を得るわけだけれど、それにどういう意味があるのかについては別の機会に再考したいものだ

*2:日本語訳が難しい概念だけれど、「アナクロニズム」「アナグラム」といった、接頭される語に抗い攪拌するニュアンスをもたらす接頭語「ana」が、「意味」を意味する「セミー」という語に添えられていることから、「通常あるいは正しい、「意味」の受け取り方を逆行させたり転倒させたり、分解したり再構築したりすること」、要するにリミックス、リマスタリングを行うことだろう、と個人的には理解している。