明日の勉強会に備えて予習。

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まずは個人的な問題意識として、スティグレールの下記の発言が問題。

どうやって動いているのかを知らないことと、どう使うのかを知らないことは、同じではありませんね。ピアノやハープシコードシンセサイザーなどを奏でるクラヴィアの名手は、自分の命じるメカニズムのなかでなにが起きているのかをなにも知らず、分からずにいても、構いません。またこのクラヴィアをつくった楽器製造者のほうでは、自分が音楽家である必要はありません。だからひとびとが楽器文化をよく狭義の技術者文化に還元しようとするのは誤りなのです。あるものについて、どう動くのかを知らなくても使うことはできます。また、あるものがどのように動くのかを知りながらも、使用することができなかったり、下手にしか使えないこともあります。

(p.97)
問題はもちろん、「ピアノやハープシコードシンセサイザーなどを奏でるクラヴィアの名手は、自分の命じるメカニズムのなかでなにが起きているのかをなにも知らず、分からずにいても、構いません。」というくだり。

ここで、名手と書かれているのが、単に演奏する人であれば、僕はさほど問題を感じない(その場合についてはあとで考える必要はありそう)。

またもちろん、一般論として「あるものについて、どう動くのかを知らなくても使うことはできます。また、あるものがどのように動くのかを知りながらも、使用することができなかったり、下手にしか使えないこともあります。」というのには同意。

この前後の流れと自分の問題系を整理してみた。

・アルファベットでは---------------書き手:読み手
・音楽 ・楽器では-----------------演奏者:楽器製造者、演奏者:聴衆
    ・オーディオヴィジュアル---製造業者:聴衆
(この三行ははっきりと区別されうるものではないと思われる)

上記引用部が出てくるのは、「記憶の証書--地政とテレテクノロジー」という章で、まずスティグレールがアルファベット記述の技術の話をして、それが視聴覚を動員する技術(オーディオヴィジュアルの技術)とは「かなり異なっている」と発言したあと。

この章の読解は、したがって、アルファベット記述の技術と、オーディオヴィジュアルの技術とがどう違っているかを理解することが肝要になる。スティグレールはこの直後に端的に「宛先者が受け取るものの発生や生産の段階におけるなんらの技術的能力を持たなくても構わない」と説明し、オーディオヴィジュアルの技術とアルファベット記述の技術とを対比する。ここも異論はありません。

このあとのデリダの発言「わたしたちの近代空間を構成する技術装置の大半は、技術的な能力のないものたちによって使用されているのです。(略)この相対的な無能力、過去の無能力とは比較にならない無能力の増大は、国家主権の衰退と同じように現代の状況を理解するためのひとつの鍵なのではないかと考えたくなります。未曾有の諸現象の大部分を説明する鍵です」とあって、それはそれで重要ですが、これを受けてスティグレールが上記引用部の発言をするわけです。

どうやって動いているのかを知らないことと、どう使うのかを知らないこと」は確かに同じではない。その点は、単に「使用者」の問題としては同意できる。しかし、ここで美学的な問題が絡む。


どうやって動いているのかを知らないで楽器を使う者が、果たして本当にその楽器の名手たりえるのだろうか?スティグレールは、IRCAMの所長だったわけで、この問題については深い思索があったはず。その思索のうえでこの発言がある。僕はこれが不思議でならない。「名手」というのは誤訳だったのではないかとすら思われるわけです。

演奏家と聴衆の話であれば、聴衆は演奏家がどのようにして楽器を弾いているのかを知る必要はないし、演奏家も多様な聴衆の聞き方をすべて把握している必要はない。こちらは「演奏家」(アルファベットにたとえるなら当然読めるし、かつ書ける人)と、「聴衆」(アルファベット技術の例でいうと読めるだけの人)との対比ということになる。この場合の「演奏家」は「名手」であってもいいし、美学的判断が加わらないで単に「演奏している人」というだけの人でも構わない。


演奏家と聴衆の対比ならば、アルファベットの書き手と読み手と同じ構図、つまり「専門家」と「非専門家」との対比になる。これはオーディオヴィジュアルの技術の問題ではない。だが、演奏家と楽器製造者との対比だと、これは今度は「専門家」と「専門家」の対比になって、アルファベット技術との対比には不適切な気もする。

つまり楽器というのは、アルファベット技術に似ていつつ、オーディオヴィジュアルの技術にも似ている。言うなれば、スティグレールは、もしかしたら、より慎重であれば、「アルファベット技術」「楽器技術」「オーディオヴィジュアル技術」の三項の対立を提示すべきだったのではないか。だがしかし、「楽器」というのは、特に現代音楽を経てからは、非常に問題含みの概念であって、それについてはペーター・サンディが触れてそうなんだけど、どうやら未訳らしいので確認ができない。

要するにどこがよくわからなかったかというと、スティグレールがなぜ、アルファベットとオーディオヴィジュアルとを対比しようというときに、オーディオヴィジュアルとは直接関係がなさそうな「クラヴィアの名手」の例を持ち出したのかという点になるだろう。楽器はオーディオヴィジュアルの技術なのだろうか?これは非常にやはり美学的に重要な問題だと思うんだけど。

逆にむしろ、オーディオヴィジュアルの機器の製造者が演奏家である必要がないというのはわからないでもない。しかし本当は、マニアックなオーディオヴィジュアルの技術者(スピーカーやアンプやマイクの設計者や録音技師)はやっぱり、楽器の鳴り方や空間での響き方にそれなりに知識や経験がないと、高度な美的性質を製品にもたらすことができないのではないかとも思っている。

(書きかけだけど読み直すためにいったんうpします。)
結局立ち消えに。あとで書き足したい。