ゴミと物質

バロウズの『トルネイド・アレイ』(1992年刊?)に椹木野衣が解説を書いていて、それがゴミと絵画と音をめぐるものだった。おっと思ったら案の定デリダに言及し、しかももしやと思って読んでたら細川周平の『レコードの美学』まで出てきた。雑さの目立つ文章だったけど、最近また拾って読んでる「叢書 文化の現在」に収録されてる文章とかぶるところが多い。僕がヴィジュアル系論を最初に書いたときにバルトと併せてよく参照した山口昌男(当時は丸山昌男*1と混同してたw ありえないけど僕は本当に人名はよく間違える)の「周縁」論は「中心:周縁」という二元論にわかりやすく図式化してしまう危険性があるけれど、ゴミの問題は、システムがどうしても老廃物を生産せざるを得ず、その管理が問題になるという点で単純明快で静的な「中心:周縁」論をふたたびリアルな問題系に結びつけるイメージだと思う。フーコーの名前が出てこなかったのが不思議な気がする前田愛の「獄舎のユートピア」はほぼ完全に倒錯していて魅力的だった。例によってまとまりが悪くてよりみちだらけなんだけど、よく読むことで日本独自のゴシック文化論が語れると思う。引用されている文章が素敵だった。あとバイロンの詩はやはりかっこいい。原書買おうかな、、、。

東氏が解説するデリダによるラカン批判*2を仕事中に読み終えた。あれー、これ絶対読んだはずなんだけど頭にちゃんと入ってないな、、、。末尾が非常に印象的だったので引用します。デリダにおける「イメージ」って何読んだらわかるんだろうか、、、

すでに述べたように、ラカンは、イメージとシンボル、非言語的な記号と言語的な記号の分割を自明な前提として議論を始めている。ここには明らかに神学的な(カトリック的な)偏向が忍び込んでおり、事実、フロイト超自我の成立をあくまでも進化論的な発想で捉えようとしていたのに対し、ラカン象徴界の成立について一種の不可知論の立場を取っていたことはよく知られている。彼の考えでは、象徴界(言語)は定義上想像界(動物的認識)の延長では成立しえないのであり、したがって、それは突然人間に到来したというほかない。このような前提から出発した理論体系がどこかに弱点を抱えるのは当然であり、まさにそのために、デリダラカン批判は行われたのだった。


しかしイメージとシンボルの分割は、そのように長い文化的背景をもつものであると同時に、また、一時期のメディア的な条件を色濃く反映していたものだと考えることもできる。例えば19世紀は、国民国家の形成とともに「芸術」の大衆化もまた進んだ世紀だったが、その当初はイメージを扱う芸術(音楽、演劇、絵画、彫刻など――ここでは「イメージ」は音も含む)は複製不可能であり、シンボルを扱う芸術(文学)だけが特権的に複製可能だった。1830年代に誕生した写真は例外的にこの分割に従わないが、イメージを扱う芸術が複製可能になったのは、基本的には、蓄音機や映画が発明された19世紀末のことである。そしてその変化の本質と衝撃の大きさが広く認識されるためには、さらに40年、ヴァルター・ベンヤミンが「複製技術時代における芸術作品」を発表する1936年まで待たねばならない。つまり近代社会においては、20世紀の半ば近くになるまで、複製可能なシンボルたちが社会集団によって共有され、回付され、いつでも呼び出すことができる集合体(印刷物の集積)を形成するのに対し、複製不可能なイメージは決してそのような集合体を作らず、むしろ単独的に、一回限りのアウラを帯び続けるという明確な対置が成立していたのである。


ラカンの有名な「鏡像段階論」が発表されたのもまた、奇しくも同じ1936年だった。つまり彼の精神分析は実は、イメージとシンボルを分割する一九世紀的なメディア環境のなかで誕生したと言えるのであり、この条件は彼の概念体系にも少なからぬ影響を与えている。例えば一部の論者が指摘するように、無数のシンボルたちが纏まって無意識的な「貯蔵庫 tresor」を作り、自己とは別の場所で独自の論理に従い整序されているという「象徴界」の発想そのものが、すでに国家単位の印刷市場や図書館、そしてタイプライターの出現に多くを負っているとも考えられる。


だがここでむしろ重要なのは、1936年以降、とりわけデリダの批判が現れた1960年代以降、イメージとシンボルの対置が、技術的にも社会的にも急速に曖昧になってきたということである。20世紀後半のメディア環境は、文字だけでなく、画像も音楽も、また動画すらも複製可能なものとし、またその複製されたイメージを大量に流通させ、貯蔵することで成立してきた。つまり私たちの社会は、この数十年間、シンボルの貯蔵庫(象徴界)だけに依存していた19世紀の社会から大きく離れ、「イメージの貯蔵庫」とでも呼ぶべきものを急速に成長させつつあると言える。「カットアップ」「リミックス」「サンプリング」などと呼ばれる技法がこの20年間ほど支配的なのは、まさに、そのような非言語的な記憶、図書館には決して入ることのないイメージ(音と映像)の貯蔵庫がすでに十分な大きさに育ち、社会的な有効性を発揮していることの証拠だと考えられるだろう。このような状況においては、イメージとシンボルの分割はかつてのような説得力を失わざるをえない。事実最近では、ラカン派の精神分析家であるスラヴォイ・ジジェクさえ、映画や文化現象を論じるなかで、象徴界想像界の関係をあらためて考えなおすことを示唆している。


とすれば私たちはここで、1960年代のデリダが提出した「エクリチュール」、つまりイメージでもシンボルでもない(あるいはそのどちらでもある)記号的審級の概念を、両者の分割がもはや維持されず、イメージの貯蔵庫とシンボルの貯蔵庫とが並び立つこの社会の記号的条件を分析する装置の理論的基盤として読むことができないか、と問うことができる。それは確かにアクロバティックな読みだが、筆者にはそれなりに生産的な作業であるように思われる。例えば私たちは、コンピュータ・グラフィックスによって隅々まで加工されたハリウッドのSFX映画や、過去のコミックやアニメからの無数の引用で満たされた日本のアニメ映画を見るとき、本当にイメージを「見て」いるのだろうか。むしろその経験は、目前のイメージを瞬時に記憶のなかへ、それも個人的な記憶ではなく、流通する類型的なイメージたちの貯蔵庫のなかへと送り返し、ふたたびそこから戻ってくることで、不在と現前の格差を楽しむ二重化された行為――つまり、「見る」というよりも「読む」ことに近いのではないだろうか。とすればそこでは、ラカン的な分割に従うならば逆説的ながら、イメージが、イメージそのものとしてシンボル的に(不在のイメージとの対照によって)経験されていると言うべきなのではないか。しかし、これら具体的な作品分析とデリダのきわめて抽象的な哲学批判を接合させる作業には、いまだ十分な論証が欠けている。その論証をより強力にし、ラカンが整えた精神分析の理論体系を、デリダエクリチュールを通過させ、象徴界だけでなく想像界の構成もまた扱うことができるように拡張すること――それは、筆者の今後の課題ということになるだろう。 

バロウズ読むのにはこのあたりの思考も有意義よなあ、、、。

*1:丸山真男さらに間違っていた。ご指摘ありがとうございます(恥)。

*2:東浩紀デリダ理解を「しょぼい」と書いてたのが衝撃的だったid:voleurknkn氏に教えてもらった