愚かしさについて

先日ある東大院生で美学を専攻している友人にサラリと「知性がないやつ」呼ばわりされたのが正直すごくショックだったんだけど、実際勉強に非常に抵抗を覚えてしまうわけで、まったく透明な知性のようなものには縁がなく、だからこそヴィジュアル系とかノイズとか異端系の音楽に興味を持ってしまうんだと考えて納得しようと思っている。以前やってたブログでも賢いつもり(そいつは尊敬できなかったけど)みたいなやつに音楽論を「クソみたい」的な書き方で一蹴されて、まともにとりあってもらえなかったときは、やっぱりまじめに批判されるよりもずっと堪えるなと感じたわけだけども。
ともあれ、僕は主観的にも絶対に知的ではない。それだけは忘れずにいたい。知的でないことは恥ずかしいし哀しいし、ときとして暴力的で非難されるべき在り方ではある。しかし僕のように愚かしさにも知的さにも透明になれない淀んだ立場は否定されるべきではないはずだ。っていうのと、ヴィジュアル系を単なる唾棄すべきドキュン音楽ではないし、単に社会学的に観察すべき対象でもないとして論考のテーマにする意味があると思う。
逆にいわゆる「高尚な芸術」として称揚するつもりもないし、何か輝かしいものとして純粋に肯定するつもりもない。日蔭もので、哀しみを引き摺っている文化として、暴力的な力強さや能天気な楽観、あるいはそれらの裏返しでしかない単なるセンチメンタリズムに落ち着きがちな大衆音楽の、ひとつの「淀み」として考えたいと思っている。