無を捨て、空に出会う

人間の認知限界を超える絶対的現実の在り方は無に近い。把握できなくて、意味不明のものでみちみちていて、了解のための手掛りすら満足にみつからず、思考停止するしかないような。そこに無理矢理(←この字面好きだ)に補助線を引く。無数に色とりどりの補助線を引いて、美しい空を描くこと、停止された思考が世界の中を及びまわれるような、意味の回路を編むこと、人工の現実。
無にとても近い剥き出しの現実から創造は始められるわけで、創造は、剥き出しの現実のその無への近さを、まずは決定的に捨てることから始めるほかない。何かをどこかに書きつける、シャッターを切る、ラッパに息を吹き込む、弦に触れさせた弓を引く、鍵盤やドラムを叩く、サンプラーなどのスイッチを押す、その瞬間に剥き出しの現実の無への近さはどんどん失われていく。創造は無から遠ざかることだ。
だから創造の過程で無へと接近することはスリルを孕む。新海誠の最新作『秒速5センチメートル』第二章のクライマックスの魅力は、実らず秘められて明かされることのできない少女の恋の行方の覚束無さと、宇宙事業の保障の無さ、少女が恋する少年と二人だけで道を歩ける幸せと、ロケットに込められた知的探究心の意義とが、一度に提示されるスリルにある。一作前の『雲のむこう、約束の場所』で「現実」と「平行世界」とに分断された少年と少女とが、奇跡的に出会うシーンでも、彼らのうえに開けたのは空だった。
アニメにおける「空」とは、無を捨て無から遠ざかる創造という行為が、再び無に接近するときのスリルを生み出す。
ところでアニメにおける「空」の描き方は概して3通りある。「高さ」の描写と、「飛行」の描写、そして見上げられた空だ。
垂直方向の視点の移動は高さを表して、これはどちらかというと認知限界を超える絶対的現実の強度と親和性が高い。たとえば塔や城や巨大なロボットや怪獣の類だ。圧倒的な質量が特徴。『スチームボーイ』とか『メトロポリス』を連想する。あともちろん『雲のむこう〜』の塔も。
この「高さ」の描写から質量を除くと、まずは「落下」ついでその「落下」に対する抵抗として「飛行」が描かれる。実は「落下」のほかに「飛散」という動きもあるんだけど、簡略化のためにこの「落下」と「飛散」とは今回は割愛。宮崎駿が得意とするのはこの「飛行」で、『雲のむこう〜』でも飛行は重要な要素だったと思う。
山本氏においては、空は見上げられた空しかないように思われる*1。これは僕が詳しくないからかもしれないけど。そして新海氏の最新作『秒速〜』での例の第二章のシーンのロケットは、塔のような質量をもち、煙が塔のようなかたちを残し、でも一直線に飛行していくもので、さらにそれは少年と少女と、そして観客たちによって見上げられていたわけで、実はこの「見上げる」というのは、かなり重要な描写方法なのかも知れない。『雲のむこう〜』でも登場人物たちはもっぱら塔と空とを見上げていた。
空と監督降板で連想したのはコレ

あとミッチーとか圧倒的質量とか書いてて連想したのはコレ

キャシャーンはなおまだもっと評価されていいと思う。あとコレに出てたミッチーがどうして『らき☆すた』のMADに登場していないのかと。
あとまあ『マトリックス レボリューション』も連想せざるを得なかった。
そして「見上げる空」と「飛行」と「飛散」で連想するのはコレ

ギター歪みすぎだと思うけどね。好きですひずみすぎたギター。
ちなみにOPばかりなのは僕がアニメ初心者だからです。
あとまだ26話までしか見れてないんだけど、少年少女が出会う空の飛行の話っつったら今はコレ

評判の悪い『エウレカセブン』を頑張って見続けてて良かったと心底思ったシーン。

*1:らき☆すた』OPラストの星空や、『ハルヒ』OPでハルヒが手を差し伸べるのも星空だった