オタク的なものにしか

眼を向けてこなかった成果、「一般人に受けそうなもの」というのがまるで思い浮かばない頭になった。これでいいだろうと思っていたのだけれど、やはりこのままだと生き辛そうだ。「良く生きる」のにあたって、一般人に受けそうなものを知っている必要は無いが、知っておいても良さそう、知っておいた方が良い気がするので、就職を機会にいろいろと勉強してみようと思う。(オタク的なものを論じる前提)

オタク的なものとして「戦闘美少女」の魅力なんかを例に挙げて考えてみようと思ったんだけど、そもそも「戦闘美少女」に反応するオタクってごく一部であって、戦わない美少女が好きなオタクも、最近は特に増えてきている気がする。さらに言えば、実はその少女が戦っているかどうかを気にしないオタクも多いだろうし、さらに実は、ほんとうはその少女が美少女でなくてもいい、というオタクもいると思う。ここまでくれば、オタクだろうが非オタクだろうがあんまり関係ないだろう。(オタク・非オタクの境界を論じないための前提)

斎藤環のあの本を読んでいて微妙だと思ったのは、オタク論と戦闘美少女論を一緒にやっていたことだった。「オタク」という概念というか言葉によって烙印を押された一群の歴史やその一群の社会やその一群における感性と、この一群にのみ消費されると限定されているわけではない「戦闘美少女」とをあたかも分かちがたく結びついているとして論じるのは興味深い早急さではあるけれども、必然性は認められない。
ともあれ、先駆的な実験だったとも言えるあの本を挙げて議論をするには、その後の蓄積に対して僕はあまりよく知らないので、オタクと「戦闘美少女」に関する微妙さについては、その微妙さは看過できないとだけ書いて保留してしまうしかないだろう。(オタクと戦闘美少女の関連を論じないための前提)

さて、戦闘美少女の魅力についてなんだけど、斎藤環が言うような虚構性と日常性の問題とか、日本独自の、、、とかの話はひとまずある程度は認めつつも、どうも「脱臭」された感がある。東浩紀の萌えの話もかなり「脱臭」されている。いったい何の臭いがそれらから抜かれているのか。それはたぶん血と汗なんじゃないか。血と汗について語りにくい状況は今後は薄れてくると思うけど。それこそ、虚構や日常における血腥さが、隠し切れなくなってきていると思うから。でもそれは僕には関係ない。

戦闘美少女の精神分析』ではこの虚構や日常における血腥さは、触れられるだけにとどまっていたように思われる。東浩紀の議論は血腥さが脱臭された地平になお漂うその臭いを嗅ぎ付けている人だと思うけど、いまだにうまく捉えられていない気がする。宇野常寛の議論は、あらためてこの血腥さを正面から扱おうというものなんだろう。大澤真幸の新刊読みたいなあ、、、。