黒沢清『黒沢清の映画術』

を読んだ。伊藤計劃氏による『トゥモローワールド』論で言及された長回し*1に対する態度や、杉田俊介氏の『叫び』論を読むにつけ、またその作品における幽霊や家族などに対する描写の巧みさから、非常に深い考察を持つ映画人だと思っていたのでどういう思考をしているのか興味があったのだが、実はまったく体系的に思想する人ではなく、まずは小中学生時代から映画にどっぷりという映画狂人としての出自があり、ついで蓮實重彦チルドレン筆頭としての映画論があり、その後、映画人としての要請に従ってさまざまな主題を取り扱った結果、作品にみられるような「深い考察」が得られているという流れだった模様。これはまったく「健全」な態度だとは思う。
いわば映画的教養を欠如し、それゆえどうしようもなく映画的なセンスを持たなかった伊丹十三監督への発言*2に見られるように、黒沢のこの「健全」さは僕には個人的にどうも不愉快なものだ。彼らのゴッドファーザーとでも言うべき蓮實が「健全さ」に対して幾分距離を持っていた(と僕は思う)のに対して、黒沢清は聊かあまりにも「健全」なのではないかと思うのだ。
でも、これは教養やセンスというものに対する世代的な感覚の違いなのかもしれない、と例によって考えてしまいもする。蓮實の時代には教養やセンスは一部の人間にとって問題になるものだった。その時代の読者層を前に蓮實が文章を書きパフォーマンスせざるを得なかったのに対して、黒沢の時代においては、いわゆるポストモダンの徹底の足音が聞こえる中で、教養やセンスが重要さを増していたのだろうと考えることもできる*3
この中間*4にあって伊丹監督は批評家から無視され、大衆に受け入れられ、その状況に苦しむことになった。黒沢清は批評家や好事家(そして何よりもゴッドファーザー蓮實)に称揚されて生き延びる。今では自らがゴッドファーザーの座を引き継いだとも言えるだろう。このマフィア的なスタンスは青山真治の態度に露骨に表れている。
ともあれ先週は『カリスマ』『大いなる幻影』を観た。『叫び』『LOFT』、そして『降霊』を観たい。『CURE』も見直したいなあと思っている。あと『回路』のタイトルの元ネタになったという『回転』(海外のクラシックな映画で黒沢清が大好きなホラーもの)も観たいものだ。
ちなみに今日は
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を観た。
フェリーニの章はテレンス・スタンプがカッコよくてとても良かった。

黒沢清の映画術

黒沢清の映画術

*1:長回しに関するまとまった論考なんか探したら面白そうだ。相米的な、とかアンゲロプロス的な、とか色々ありそう。そういえば黒沢清は長谷川=相米=黒沢=青山という感じで師弟筋がはっきりしている流れの中に位置しているということを漸く最近知った。あまりにも露骨に学生映画的なのだが、どうも70年代ごろにそういう流行があり、いまだそれを引き摺っている(悪い意味ではなく)ようだ。過去にそういう流行があったのは考えてみれば当然ではある。つまり、いまだ尚繰り返される8ミリ的なというか、学生映画然としたスタイルというのは、スタイルとしてはかなり古臭いものだということだ。これは学生のときに知ってても良かったなーとおもう。

*2:悪意はないのだろうが、無意識に軽蔑しているように感じられる発言であった。意識的には、シネフィルとしての自分と、単に趣味的に熱狂していた俄仕込みの伊丹監督の趣味との解離を仕方ないものと了解しているようではあった。伊丹監督の「アップ」趣味に対する、作家としての執拗な黒沢の抵抗が象徴的。

*3:岸野雄一氏のスタディスト的なスタンスもこの領野でのものだろう。彼の言説の生産性や射程の長さに驚嘆しつつも、どこか空寒い感じが伴うのは、どこか解離に対して自覚が足りない・というよりは意図的に無視しているように思われるからである。実際にお会いしてお話しさせていただいた身としては、ご本人の真摯な態度から、自らの出自を曲げるのは難しいのだなーと感慨したのが印象的である。

*4:「中間」というのはまったく精確ではない。どちらかというと、映画史的には黒沢のスタイルよりも伊丹監督のスタイルの方が新しいものだろうから。ただ乗っている波としては中間だったようにも考えられはいまいか。