スプラッタとしての『よつばと!』

あずまきよひこ氏の作品は怖くて読めていない。『スクラン』や『ガンスリ』に通じる恐ろしさがあって手にはとるが読めないのだ。というようなことを
http://d.hatena.ne.jp/mae-9/20070928#p1
を読んで思った。高遠るい氏の作品とかにも思うんだけれども、弱い立場の女性がさらに悲惨な状況に追い込まれるような作品、自分のサディスティックな欲望を掻き立てられないと楽しめないような作品にはまあ当然のことのように拒否感があるんだが。
しかし昨夜観たズラウスキーの『ポゼッション』が楽しめたので、慣れればそういうのも大丈夫なのかも知れない。まだ観ていない人はぜひ観るべき。んで楽しめなかったら残念賞。
ところでSITEZEROのvol.1を買うことができた。池袋のジュンク堂では平積みだった。青山のABCには置いてなかったのに(vol.0は置いてあった。すでに持ってたから買わなかったけど)。全体的に精神病を扱ったものが多くていまいちまだ読み込めていない*1
他方で、vol.0の方を読み返している。田中純の『男たちの秘密(1)』が面白い。
中沢新一による芸術人類学が紋切り型の神話論的な構成である旨を批判しつつ、象徴の機能的側面や「童子」といった概念を導入して「男性」「女性」の性質を読み直していく。無縁、法外な存在としての「ソト」(朝鮮半島から伝わった概念のようだ)における「男性性・女性性」の概念対の役割がまず語られ、続いて新羅の「花郎」という制度が紹介される。「花郎」は青年を戦士あるいは社会的な地位に成長させるために機能する制度であり、古来は二人の女性が「花郎」に選ばれ、その二人を崇敬する男性が集まるというものだったが、やがてその美しさを互いに嫉妬した女性同士が争うようになり殺人が行われるようになったという。それを繰り返さないように女性に代わって少年が「花郎」に選ばれるようになったという話*2
女性性を象徴的に奉りつつ、それを葬って「美」やイデオロギーを中心にした男性ばかりが集まる機能集団が組まれる、狩猟社会から農耕社会へと以降するなかで女性の役割が大きくなり、男性結社の役割が単なる機能集団ではなく、強くなった女性の役割を抑圧する「権力」の装置として維持されようとする。この構図を辿った20世紀のヨーロッパの民俗研究、とりわけゲルマン→ナチズムの男性結社論を追う。ゲルマンにおける「ベルセルク」は、象徴化した狩猟(=戦争・略奪)*3を儀式化したものだということを思い出した。
まだ読みかけだけど面白い。

*1:精神病の何がそんなに面白いんだろうか?まあ、読めばわかるのかも知れないがw

*2:うろおぼえ

*3:たぶんこれは管理社会、ポストフォーディズム社会におけるサディズムの源流だと思うんだけど→もちろんDVとかに関する