六本木クロッシングでサワラギノイ氏を見かける
昨夜はプレスで森美術館に行ってきました。大仰な出迎えに思わず笑みが漏れる。ゲストキュレーターのうち、批評的に気になるのはサワラギ氏のみなんだけど、今回は「森財団的」な雰囲気を批評的に外延する仕事ぶり(気質的にはかなり適任だとは思う。露悪的・偽悪的かつ微妙に良心が押し付けがましいところまで。嫌いではないが、あのグロテスクにどれだけの人が勘付いているのか、、、まあそれはどうでもいいや)でとりたてて面白いところはなかった。批評的なセンスに関しては深く共感できるのだけれど、如何せん、文章を書くときのアグレッシブさと比べて、作品を選ぶスタンスが王道すぎる気がしてならない。王道が有り難い「悪い場所」なのだからそれも仕方ないのだろうけれども、、、、。
ちなみに貨幣経済と不動産業界が結びついた団体が美術に手を出すとき、そこには「死の臭い」が充満する。これは「不在」の痕跡である貨幣をやりとりすることで成り立っている貨幣経済と、「存在」そのものを「扱う(=「存在を扱う」のはたぶん語義矛盾であり、これ自体で既に貨幣経済と親和性が高いんだろうけど)」不動産業界の両方にはじめから「死の臭い」が漂っているからだろう。美術はたぶんそれをいわば醸し出すのではないか。
サワラギ氏は日本の場を「悪い場所」と言ってしまうような物書きとしての乱暴さと、王道を行ってしまう生真面目すぎるところに違和感を禁じえないけれど、「批評家の人にこういうこと書いて欲しいな」と思っていたことを書いてくれるので嬉しい(なんて怠惰な俺)。五十嵐太郎や東浩紀についても同様というか、自分が読み手として好きな批評家というのはそういう人なんだと思う。サワラギ氏について言えば特にロック/ポップに対する言及が嬉しい。あと社会批評と美術批評を絡めようとしているところ。そしてなにより、死の臭いに魅惑されているところだろう。