つづき

部分対象は、早々と現れる全体性の直観に捕獲され、同じように自我は、この自我の実現に先行する統一性の直観に捕獲されるといわれる(メラニー・クラインにおいてさえも、分裂気質の部分対象はひとつの全体に関係づけられr、この全体は、抑鬱段階における完全対象の到来を準備する)。ところが、このような統一性‐全体性は、何らかの不在の様相においてしか措定されないということは明らかである。つまり、それは部分対象や欲望の主体にとって「欠如している」のだ。だから、すべては演技なのだ。

この指摘は、少なくとも個人的には、きわめて重要に思われる。