ピューリタニズムの天職観念と少年漫画の精神
(↑いきなり引用まちがったので修正)
これは絶対に重大な指摘だと思う。ので個人的にも追究したいと思う。
http://d.hatena.ne.jp/izumino/20080415/p1
「もしも神があなたがたに、自分の霊魂も他人の霊魂も害うことなく、律法にかなったやり方で、しかも、他の方法によるよりいっそう多くを利得しうるような方法を示し給うたばあい、もしそれを斥けて利得の少ない方法をえらぶとすれば、あなたがたは自分に対する召名の目的の一つに逆らい、神の管理人としてその賜物を受けとり、神の求め給うときに彼のためにそれを用いることを拒む、ということになる。もちろん肉や欲や罪のためではなくて、神のためにあなたがたが労働し、富裕になるというのはよいことなのだ」
これ、少年漫画読みとしては、不思議なくらいすんなり頭の中に入ってくる言葉だと思いません?
この思想って、少年漫画のテーマとしてそのまんま使っても全然違和感無いですよ。
日本の経営者や起業人とか、バリバリのビジネスマンには本宮ひろ志ファンが多いという話は良く聞くのですが、これって、一体どこで繋がってるんだろうなぁと考えると、なかなか、深いです。
『アンチ・オイディプス』における、直接の精神分析批判ではないところのその大部分は、資本主義的な理想が「成人前の存在を立派な成人に矯正していくフィクション」を構成する色々の要素を分析しているものだと思って読んでいる私としては、とても興味深い。
ちなみにこのあたりって、杉田俊介氏が一番深いところまで読み比べているのではないだろうかと思うんだけど、どうなんだろう、、、。
ちなみに「成人前の存在を立派な成人に矯正していくフィクション」というものは、あるいは、「その『矯正』に失敗するフィクション」だというべきなのかも知れない。私はそう言いたくなってしまう。なぜなら「立派な成人」なんて幻想だから、あるいは資本主義の理想とは「何かを矯正して立派な成人」を作り出す幻想なのだから、そう私が言いたいから。資本主義はたしかに「立派な成人」を生み出すかもしれないけれど、その過程で「失敗」をも生み出しうる。その失敗のすべてを「立派な成人」が救いうるとは限らない。失敗をいかにして救い得るのか。いや、ちがう。おそらく「立派な成人」は「立派な成人」同士の世界を作って、失敗者を駆逐するだろう。排斥された失敗者たちは、いかにしてこの世界で生きていけばいいのか。