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Chim↑Pomがニュースになるようなパフォーマンスを行ったらしい(制作中の作品の要素ということのようだけれど)。
不快感を持たれた人たちの気持ちを想像するにつけ、胸が苦しく、キーボードを叩く指から力が抜けていくのだけれど、それでも、書いておいたほうがいいような気がするので。
安易に言及すべきことではないとは思う。でも。2chとかでたたかれているような(現代美術の文脈を知らない人たちによる)批判については、チンポムの人たちはすべて織り込み済みでやっているだろう。もちろん、「批判は織り込み済み、つまり受け付けない」ということじゃない。
「現代美術の露悪性(とその表裏になる陳腐な偽善性と)を端的に示し、かつそのロマンティックな自滅志向を自演する」という今までのチンポムの活動に一貫したスタイルのひとつの極限(今回もそのスタイルへの自覚性は隠されたままだが)。もちろん極限だから許されると言いたいわけではない。でも作品制作の過程のひとつだけでこんなに注目されている。作品はどうなるのだろうか。「芸術だったら許される」とか「まじめだから許される」とかそういう次元の問題じゃない。「許されないことも芸術ならできる、でも、それってどうなのか=芸術ってなんなのか」という問題提起をしているんだろう。しかしこの問題提起は、多くの人たちには「芸術って何なのか」って「お芸術」の世界だけで通用することでしょ?「一般の世界ではそれは通用しないよ?」とか言われている。人の気持ちを逆撫ですること、死者を冒涜することは許されない。
でも、チンポムはおそらく、「一般の世界」と「お芸術」とのあいだに最終的には明確な境界線を引かない。*1もっとも、実際には、「お芸術」らしさをかなり残してもいる。ただし、彼らが「お芸術」と言われる、閉鎖的で浮世離れしたシーンで自足しているのであれば、今までのどの作品も話題にはならなかっただろう。チンポムは意図的に話題性を狙っている。話題性か、その話題性を使って集めた注目に回答する際の「メッセージ」か、そのどちらに彼らが重心を置いているのかは(これもおそらく、だけれど少なくとも当面は)明らかにされないだろう。なんらかの善意のある「メッセージ」が過剰な露悪性を伴う話題づくりによって注目を集める、そしてそれが「芸術」の文脈から逸脱しないということ。
「芸術」を一般常識にとっての「悪」として浮き上がらせること、つまり人が悪を働くことが「できる」ことを「芸術」が、テクニカルには、許容しているということ、それが問題になる。芸術としてはその悪の表現の仕方が問題になるのだけれど、それにおいてもチンポムは「ノリでやっちゃいました」「お芸術なんで許してください」「実はこんな隠されたメッセージがありまして」というような、「本人たちには悪気はないんです」的な、それでいて精神的な被害者たちにとってはまさに「しゃれにならない」「謝られたって許せない」ような表現の仕方を選択している。なぜそんな選択をするのか。芸術について考える人は、ここを考えなければならない。もちろん、それを考えたところで彼らが許されるとは思っていない。彼らも許されることを期待してはいないだろう。許してほしいとは言うと思うし、許してもらえればうれしいとは思うだろうけれども。
なぜ原爆が、かつて広島に落とされたのか。この「なぜ」に対する回答は多様なままだ。戦争があったから。アメリカが早く戦争を終わらせたかったから。アメリカが原子爆弾の効果を試したかったから。原爆の威力を知らなかったエノラ・ゲイのパイロットが任務を遂行したから。西洋人は伝統的に黄色人種を「猿」に近い動物だと教えられており、戦争のときは仕方なしに殺すことが許されると思われていたから。人道的難問に向かい合う時に社会的権威の前に実存を賭けなければならない、社会的地位の低い人たちが、いつでも手を下すことになっているから。あるいは、日本がもっと早く終戦を受け入れなかったから。広島が軍事的な要点だったから。日本がアメリカと戦争をしていたから。もしくは、日本がアメリカと戦争をせざるを得ない事態におかれていたから。
どんな理由があっても、原爆で破壊された町は元には戻らないし、殺された人は生き返らない。傷ついた人の痛み、被爆した人々の苦しみ、彼らの近親者・縁者たち突きつけられた、理不尽な事態を補償することは絶対にできない。そこで失われた尊厳の負の絶対性は、直接に被害者を知らなくても、まして日本人でなくても、想像し、哀悼し、そこで起きた惨事について悔やむことができるはずだ。
だが実際には、現実には、事実として、可能性として、その痛みが軽んじられる場合がある。歴史を知り、人の命の尊さ、生活の重みを知っていてもなお、殺された人の死を嗤い、あるいは軽々しく表象し、金儲けに利用しようとする人がいる。この現実の残酷さ、バカバカしさ、その恐ろしさを知らない人は、愚かにして幸せものだと言わざるを得ない(そういう人もいっぱいいる)。この現実の理由も、いくらでも列挙できる。ともかく、無数の要因によって、死が軽んじられる事態が、いたるところで現実化している。どんなに罪深いことであっても、現在のあらゆる法律や政治の体制では、死を軽んじることを、技術的に全面禁止することはできない。まして、日本のように自国の領土内に原爆を投下されたわけではないアメリカにとっては、原爆は脅威ではあれど、日本人が抱くような圧倒的な死のイメージとは必ずしも結び付けられないケースが多い。第二次大戦の敗戦の記憶が遠ざかるにつれて、日本でも「常識としての」原爆のイメージの禍々しさは失われているだろう。2chでもチンポムの行為の侵したものについて理解できないという書き込みがあった(あくまで「理解できないという書き込み」であって、書いた人が本当に理解していないのかは定かではないが)。
語弊を恐れないわけにはいかないが、でも、まず、ここで「悪」は2つ指摘できる。仕方ないということで自分を許して為される悪。そして無知そのものによる悪。チンポムの行為が許されないとすれば、それが「芸術だから許される」あるいは「やってしまったのだから仕方ない」と開き直る場合と、そもそも原爆被害者に対する配慮が足りない場合がまず挙げられる。特に配慮については「やってしまった」以上はいくら配慮しても万人を納得させることはできない。
かつて岡本太郎は「芸術は爆発だ」と言った。これはテレビで有名になった言葉だ。その爆発はダイナマイトによる爆発だろうか。カンボジアに埋められた地雷の爆発だろうか。特攻で炸裂する零戦の爆発だろうか。それとも原爆の爆発なのだろうか。少なくとも岡本太郎の「爆発」は誰も殺さなかった。岡本太郎自身のことはともかく、また彼の家族や親類縁者はともかく、ほかの誰もおそらく傷付けなかった。だが、炸裂するその場で誰のことも傷つけない爆発などありえるのだろうか。芸術は、誰のことも傷つけない爆発だ、とそう岡本太郎は言いたかったのだろうか。そんな生ぬるいことを岡本が言うだろうか。
だいぶ書き過ぎた。チンポムを否定的に取り上げないこと、かといって容易に肯定しないこと、それでも書くべきこと、書いたほうがいいと私が思ったことがなんだったのか、これだけ書いてもまだわからない。芸術の「わからなさ」をそのまま肯定する気もない。ともかく、11/1がきて、作品が公開されて、その作品が今後どのような評価を受けるのか、興味深く見守りたい。