性と記号と身体

どこからああなってしまったのかを思い出せないんだけど、「性の描写」「性器の表現」が語られ出したときの伊藤さんと東さんのはしゃぎっぷりが実に楽しそうでよかった。小心者の杖さんの昔のレポートを読んでみたところ、エロマンガイズデッドオアアライブの以前の回でも同様の事態に発展し、そのときは同席できていた斉藤環氏が困っていたらしい。でもやっぱり性癖暴露大会は面白いよね。

ただ残念ながら、正直な暴露の結果、どうもやはり手塚治虫はあのあたりの世代のイタセクサリスになってしまっているということが明るみに出てしまう。それを正直に明るみにだすことは否定のしようがないんだけど、でも他のもので目覚めるひともいただろうし、小谷さんなんか唯一の女性の出席者だったんだから、いまさらしらじらしく「おとこのひとってそんなに幼いころから勃起するの?」とか言ってないで、せめて当時の女性の目からみた手塚像とか、あるいはどれくらい手塚が性的に視野に入らなかったのかを、少しでも述べてくれれば面白かったのにとか思いました*1

それはともかく(もう小谷氏を悪く言うのはここらへんでやめておこう)、手塚以外で性に目覚める人もいるし、逆に手塚に限らず何にも性を目覚めさせられなかった人もいたはずで、そのあたりの話も聴けたら面白かったなと思っていた。第二部では、幼少期に手塚に触れなかった人たち(ダーティ松本とか!)がゲストだったわけで、そういう話もあったかも知れないんだけど。でも僕も実家に手塚全集がほぼそろってた関係で、手塚の話がけっこうよくわかったのが楽しかった。ちなみに下記ページによれば、『白いパイロット』は1961年発表の作品のようです*2

ともあれ、その手塚を論じた大塚英志氏における「性と記号」の表現と規制の話がそのわりとグダグダだった話から導き出されたときはハッとした。Imamuさんがレポで展開されていたように、性と記号と身体の話は、メディアと産業を挟んで、アイドルの話や僕が専門にしたいと思っているヴィジュアル系の話に直結される問題である。こういうグダグダなことと、規制にも絡んでくるような抽象的で観念的な話とが、大衆と快楽の問題、すなわち広い意味でのアイドルの問題にとって重要な感じがする。このあたりのことは別に近々書きたい。僕は大塚英志をあんまり読んでいないので、これから読まないとなあ。ちなみにまたバルトの『神話作用』のプロレスラーは現代の神であるの話を思い出した。再読したいな。

ただこの話の途中で、本人もきわめて単純化しているということを認めていたけれど、斎藤環と東氏にとっての「性と記号」の表現の捉え方の違いというのは、やっぱり東氏からのまとめだとどうもアンフェアに思えた。実際、斎藤氏があんなに単純に性と記号を捉えているわけはないわけで、東氏もしきりに残念がっていたけれど、あそこに斎藤氏がいなかったのは損失だったと思う。

ちなみに単純化された図式とは下記の通り

斎藤氏
エロマンガは記号化されているから性的ではなく規制の対象とはなり得ない」


東氏
エロマンガは記号化されていて性的でもあるから規制の対象となり得る」

ここで当然問題になるのは、大塚氏が問題にして伊藤氏が継承した「記号的身体」の表現の問題であって、個人的に興味深かったのは、大塚氏におけるこの認識に雑誌『新現実』の宮本大人氏の論考が影響を与えているという東氏の指摘。『新現実』は刊行当時本当に鼻血が出るんじゃないかという勢いで読んでいたので、また読み直したくなった。  

*1:もっとも「女性だから〜してくれれば面白かったのに」というのは確かに野次馬根性からの発言なのであまり良くはないと自覚しています。それにしたって、ゲストとしてあまりに役立たずだった気がする。

*2:話題に上ったんだけど、伊藤氏も永山氏も何年の作品かわからなくてグダグダになっていた。著作がクールなのに、座談会でグダグダなお二人がキュートでした((こういうチャンスにすかさず「○○年ですよ!」とか暗記してるところをアピールするのって、ニューアカ的な秀才的ポーズで逆にかっこ悪い気がする。現代ではあとで検索すればわかるんだし。まあ、あくまで印象の話であって、暗記してるデータベースが膨大であるほうが絶対に知識人としては信用がおけるわけだけれども、、、いや、でもやっぱり印象悪いな。
http://ja.tezuka.co.jp/manga/sakuhin/m050/m050_01.html