ようやく『テヅカ・イズ・デッド』を読了した。
マンガにおいて「キャラクター」が「生活感、生き方、話し方、人生観」をもって「存在感」を得る。とする考え方がある。
また、ただ図像に対して「固有名による名指し」*1が行われることが、人が「キャラ」を「キャラ」として認識する決定的な条件となる。とする考え方がある。と著者の伊藤剛氏は言う。
著者は、「生活感、生き方、話し方、人生観」によって存在感を与えられる*2「キャラクター」をのみ読んでマンガを評価する態度と、「生活感、生き方、話し方、人生観」を問題にする以前に*3「キャラ」を鑑賞する態度とを、架橋しようとしている、と僕は読んだ。
「キャラクター」をのみ読んでマンガを評価する態度を、身体性や文学性に依拠して他律的にマンガを読む態度であると著者は言う*4。他方で、マンガを自律的に読む方法、すなわちマンガの表現論が「マンガのリアリティ」の章で語られている。フレームの不確定性と映画的リアリズムを論じながら、文学や映画と対比してマンガ表現における独特の「リアリティ」が非常に説得的に解説される。
ある種の読者には難しかったかもしれないのは、著者の立ち位置の理解だろう。単純な「手塚崇拝者=人間主義者」対「手塚の死後の世代=萌え重視・非人間主義」の二項対立では著者の立ち位置は定められない。厳密には著者と同様に二項対立に回収されない態度を採用している他の「網状」メンバーである東浩紀斎藤環らが、それでも著者よりは明確に「萌え重視」の読者たちを肯定・擁護しているかのような素振りをしているのに対して、著者の態度はどちらかと言えばむしろ「手塚崇拝者=人間主義」の側に立つようにも読める。無論、著者はどちらかに立っているのではないのだが。
単純な「人間主義」対「非・人間主義」、あるいは「モダニズム」対「ポストモダニズム」、あるいは「成長主義」対「反成長主義」の対立ではなくて、産業として成熟「してしまった」マンガを「環境として」生活する我々が採用することのできる態度を模索し提示すること、つまり、マンガに囲まれて生きている人にとってのリアリティを直視する態度、すなわち著者なりのリアリズムの表明をそこに読めなければ、本書は実は語り口が平明な入門的内容であるのにも関わらず、難解でとっつきにくいものに思われてしまうのではないだろうか。
だが逆に、この著者の「リアリズム」を理解することができれば、本書は極めて容易な内容であることが把握されるだろう。非常に「読み易い」のである。この著者の「リアリズム」を理解できたかどうかが、本書がまったく黙殺されるか歓迎されるかの二通りの態度のどちらを引き起こすことになるかを左右していたといっても過言ではないだろう。もちろん、「手塚崇拝者=人間主義者」であって「手塚死後世代の萌え重視の態度」を強く否定する人々は最初から二項対立の片方に陣取ってしまっているため、また本書中ほどで詳しく論じられているような「マンガ特有のリアリティを抑圧する近代的リアリズム」のリアリティを自明視してしまうため、著者の「リアリズム」を捉えられなかった可能性は高い*5
個人的には、僕は著者のこの「リアリズム」には強く共感するし、このマンガに満ちた環境における「リアリティ」の分析は、初歩的なものだけれども、それゆえに明快で示唆に富んでいると思う。マンガ表現論は今後怒涛のように発展するのではないかと強く期待が高まる。だがしかし、それはそれとして、なお個人的には、マンガを環境として感覚しうるリアリティの持ち主たちと、そうではない人々*6とのあいだの齟齬や葛藤に、あまり著者の意識が割かれていなかったことが不満だった。
著者の意図の一部はおそらく、手塚にまつわる「神話」を分析し、マンガのリアリティを分析し、結果として従来型の手塚信仰を解体して再構築することにあったのではないだろうか。だがそれが成功するのは難しいだろう。私見では、その成功は、いわば(東浩紀的に?)環境分析とリアリティ(の多様性とそれらのあいだの同期の困難さ)の問題が理解されることを前提段階に必要とする。
この環境分析+リアリティの問題の理解のためには、精神分析だけでも不足であり、いわゆる従来型のメディア論だけでも不足だろう。ポストデリダと呼ばれるスティグレールマラブーとその読者たち、そして自分自身のその読書体験に、期待を賭ける部分である。

*1:あるいは人名のような固有名を持つ存在であることがじゅうぶんに予想される場合

*2:キャラクターを立たせる

*3:つまりそこに描かれている図像の「キャラクター」性、その図像が「キャラクターとして立っているかどうか」を評価軸に据えずに

*4:一方的に「キャラクター」を重視する読者たちの態度を退けてはいない

*5:実は逆もまた然りなのだが。

*6:それぞれによって環境に持つメディアが違う。映画的リアリティもあるし文学的リアリティもあるしテレビ的リアリティもあるし、極端な話、いわゆる「メディア」からの影響の少ない環境におけるリアリティだって想定しうる