サイゾー八月号のオタク論壇MAPの影響

宇野氏による独断的な(?)マッピング、妥当性はともかく、SFマガジンのときよりも突っ込みどころ(ツッコミどころというよりも)満載感があったのに少なくともはてな界隈では反応があんまりなかったのは不思議だった。あんまりにあんまりだったのでみんな敬遠したのかな。ともあれ「オトナアニメ」の「さらたね」なんとかで気炎を吐いててかっこよかった更科修一郎氏が宇野氏ときわめて近い位置にマッピングされていたのが印象的だったので、今回の更科氏の反応には驚いた。

僕はマニアックな論壇好きではないので、あのマッピングの妥当性にはあまり興味が無いし、更科氏のこともよく存じ上げないのだけれど、「オトナアニメ」でのアドルノみたいなスタンス(僕の誤読だったら申し訳ないけど)が非常にかっこいーなーと思っていただけに、難しい立ち位置に疲れてしまったような今回の発言を読むにつけ、悲しい事態に進展しているなと思った。

僕は宇野氏のスタンスには、ある種の期待はしている。もっとも、なんだかすごくズレている気はする。「すごくズレたところから、新しいことをなんとかして発言する」というのは本人がどう思うかとかどう見做すか、どう規定するかといったことは別として、たしかに批評的な態度ではあるだろう。だからそのことはそれでいい。*1いわゆる「プロレス」みたいな事態に発展して、そういうのに賭けられる余裕のある人は賭けて勝ったり負けたり、乗ったり降りたりすればいい。それはそれで面白いけど、それこそ悪い意味で「セカイ系」っぽい気もしないでもない。詳しくないのでこのあたりも深入りできないけど。

批評のある種の自由さ(人によっては不自由さに見えるとも思うけど)が、この宇野氏のここ数ヶ月の動向で脚光を浴びているように思われる。宇野氏は照明係としては相当有能だと思う。それとは別種の自由さ、それこそ、東氏が慎重になっているときの態度や、伊藤剛氏のような態度、一部の社会運動と連動する批評家たちの態度、要するにシリアスに言葉を選ぶことで、言説の限界において自由な態度もまたあると思う。そしてその次元で宇野氏の文章がどう読まれるのか、というのに僕は関心があるのだけれど、残念ながら当の自分自身に、そこまで時間を割く余裕がないというのが現状である。

前々回に『テヅカイズデッド』の感想を簡単にまとめたものに、新しくブクマがついていたので誰だろうと思って確認してみたら、憧れの(と書くと胡散臭くて恐縮なのですが)杉田俊介さんがブクマしてくれていてまた驚きました。コメントがなかったのでどういう意図かはわからないのですが、杉田さんによる宇野氏の『ゼロ年代の想像力』の感想が全否定のようだったのも印象的でした*2。どちらも読み込めていないのでこれもメモ的なものなのですが、杉田さんのような強度でもって、宇野氏の文章やスタンスから、何か、伊藤剛さん的なかたちで掬い取れるものは何かないか、というのを探れたら、と思うのです。それは僕が挑戦すべきことであって、杉田さんに望むべきではないことです。

オトナアニメ」の山本寛インタビューをようやく読んだ。次号がとても楽しみ。今号も、予告編的なじれったさもありつつ、単体でも十分面白く読めた。いまさらながらユリイカの「マンガ批評の最前線」を読んでいるのだけれど、伊藤剛が『テヅカイズデッド』で明記しなかった不定形の問題群の可能性、そして東浩紀がおそらく取りこぼしたものが、ここにあるように思われる。それは「フレームの不確定性」の問題だろう。このあたりは斎藤環の『フレーム憑き』と併せて検討したい。未読なのでまたメモするのみ。

「フレーム」というのはマンガに限らず不確定になり得ると僕は思う。よって、キャラ・キャラクターの区別(二項対立ではない)は、マンガ以外でも成立しえる。マンガを例にとり、図像や固有名詞で説明することで、キャラ・キャラクターの区別、要するに「確定したフレームにおけるリアルな(近代的な)人間観」の確定性が説明されやすくなる。不確定な、あるいは比較的・相対的に確定性の低い、つまり流動的もしくは拡散的な「ストーリー」を、可能世界を多層的に想像するようにして、想起できるかどうか、それをどう想起するのか、というのが問題だと思う。

ぶっちゃけて言えば、メディアの数だけストーリーは増殖するんだけど、いわゆる近代というのは、私見では、メディアそのものの増殖に対する反動として、増殖しようとするストーリーをキャラクターの一意性によって統一しようと志向したのではないかと思う。ある程度それを成功させることができる人々は、キャラクターの一意性と人生観をも同期させることにより、歴史的人物として大成を遂げる。正直、ポストモダンというのは、これは冗談のようなものだけど、メディアそのものの増殖と飽和によって、歴史的人物の数も飽和してしまって、相対的に一意なストーリーと人生をシンクロさせることで提示できる「大成」のイメージの価値が相対的に低下した状況をさしているのではないだろうか。

とりとめなく書いているこのエントリだけど、なんとか収束させるために、だいぶ雑に書けば、複数のメディアを総括しうる一意なストーリーにシンクロした人生という「大成」ではなくて、統一性を期待できないほどに散らばって与えられている各メディアが織り成す環境において、それぞれの断片に向き合って、それぞれにあるフレームの不確定性、時間感覚の多様性、キャラクター未満の図像や固有名といかに戯れるかが重要なんだろう。その戯れに希望を抱けるか、どのように希望を抱くか、ということのほうがもっと重要だと思うけど。

すんごい説明不足ですが、とりいそぎメモでした。

*1:批評的である、ということが、それだけでそれでいい、と言われてしまって本当にそれでいいのかというのは甚だ疑問ではあるが

*2:http://d.hatena.ne.jp/sugitasyunsuke/20070614/p2