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vol.0に収録されている宮崎裕助氏の「吐き気」という論考をようやく読み終えた。
美しい文章だった。一冊二千円近いので雑誌として考えると高いけど、単行本だと思えば相当安い。
バタイユからクリステヴァ、その批判としてのクラウスの「アンフォルム」
形式と美と自由と崇高、そして不定形に関するカントの思考
カントの不定形に関する議論を参照するときのヘーゲル以後の観方
それを批判的に取り囲む、絶対的に指示不可能な「吐き気」
デリダのエコミメーシス、ハーマッハーのヘーゲル論を参照しつつ、
最後はカントの『判断力批判』からこんな美しい一節を引用しつつ
何の説明も無く途絶する。

通常それに向かう素質が齢を重ねるにつれて多くの善良な人間の心になじんでくる一種の(きわめて非本来的にそう呼ばれているが)離人症[Misanthropie人間嫌い]があるが、これは好意にかんしては十分に博愛的であるものの、長年にわたる哀しい経験によって、人間にたいする適意からはるかに遠ざかっているのであり、隠遁への性癖、人里離れた所領地で暮らそうという空想的願望、あるいはまた(若い人々の場合に)ロビンソン・クルーソー風の小説家や詩人がうまく利用することを知っているような、他の人々に知られていない島で少数の家族とともに自分の生涯を送ることができたらという夢見られた幸福は、こうした種類の離人症を証拠立てるのである。虚偽や、忘恩や、不正や、われわれ自身が重要で重大と見做している諸目的でありながら、それらを追求する際に人間自身がおよそ考えられるあらゆる禍いを互いに加えあうといった、子供じみた事柄は、人間が意欲しさえすればそうなることができるもの理念とまったく矛盾し、人間をより善いものとみたい生き生きした願望にまったく対立しているから、人間を愛することができないのでせめて人間を憎まないために、一切の社会的な喜びを断念することが小さな犠牲に過ぎないように見えるのである。この哀しみを(……)人間は人間自身に対して加える(……)(KU276)

書いておきたいことはいっぱいあるけれど、今夜はこの辺で。
しかしこの最後は、突然唐突に現れるというよりは、明快な論理的展開のあとに余韻を残すように記されているもので、まるで静かな映画を見終えたあとのような感慨がある。ともあれ、美や醜さに関心をお持ちの向きには必読と言いたい論考です。