『ef』のアニメを観終わった。

ネタばれなので気にする人は以下を観ないように。
ネタばれ回避のために、一部に不評ながら個人的には気に入っている動画を貼っておくよ。

「自発的に孤独な自由を得た広野紘(漫画家業に専念するために高校を退学する)」と「家庭環境により孤独な自由を得た宮村みやこ(不和のある家庭にて疎外された幼少期を過ごしたことで、希薄な人間関係を選択している)」が出会って惹かれあう、というストーリーと、「一日以上前の記憶を失ってしまう新藤千尋」に恋をする麻生蓮治のストーリーとがザッピングされる構成だったと僕は見た。
広野=宮村のストーリーも、新藤=麻生のストーリーも、登場人物が物語内物語をつくっているという共通点がある。もう一つ重要な共通点は、どちらにおいても「捨てる」という行為が問題化されているところだろう。広野は幼馴染の新藤景からの恋愛感情を引き受けるという選択肢を捨てることになり、また宮村は広野の恋愛感情の対象から外されることを「捨てる」と表現し「捨てられる」ことを懸命に回避しようとしていた。新藤=麻生のストーリーではこれはさらに極端で、記憶を保てない自分は麻生を苦しめるだろうから、関係が深まらないうちに自らを「捨てる」と言い、新藤は麻生との日々を綴った(そしてそれを読み返すことで2人の関係を確認することができる)日記のページを廃棄する。
広野=宮村のストーリーでは、新藤景も宮村も、高校生活も漫画家業も、どちらも「捨てられない」と言う広野が、とある人物から「あなたが捨てるのではなく、あなたを捨ててもらうのです」と教えられ、すっきりさっぱり新藤景からの恋愛対象の座を降りる(と確認できる言動はなかったと思うのだけれど、そう理解しないとすっきりさっぱりしない)。
新藤=麻生のストーリーでは、新藤が捨てた日記の断片を不完全ながら麻生が拾い集めて、これからも拾い続けるから、今後もつきあってほしいと麻生が宣言する。新藤も、日記を捨てても、絶えず麻生のことを思い続けてしまう(一日以上記憶が途絶しない)ため、麻生のことを忘れることができない。
というわけで、大筋のテーマを集約するならば「ずっと絶えず思い続けられるような『大事なもの』があれば、形の上でそれを廃棄しても、断片を拾い集めて未来に繋げていけるし、そうまでして繋げていく気がないていどの『大事なもの』からは、折をみて自分から降りなさい=自分を捨ててもらいなさい」ということになるだろう。
したがって、
http://d.hatena.ne.jp/negative-naive/20080102#1199272795
で私が注目した「記憶」とは、「形の上で廃棄できるもの」「断片を拾い集められるもの」「断片を拾い集めて未来に繋げていくもの」に関わる。広野の「漫画」、新藤=麻生における「日記」と「小説」、そして捨てられ・拾い集められる断片としての「紙飛行機」が象徴することになる。
なお、広野=宮村のストーリーにおいては、広野=新藤景の恋愛とか、広野が宮村とも新藤景とも恋愛するというような展開は許されていないし、新藤=麻生のストーリーでは、新藤の記憶障害が治るという展開や、新藤が麻生との日々を完全に思い出す可能性も仄めかされていない。これは(どうでもいいことだけど)、「誰もが何も失わないラブストーリー」の体裁を拒否した結果だろう。これはある意味でのリアリズムだと思う。
広野における何が「異質」だったのか(漫画?)は不明ながら、宮村における「新藤景(幼馴染という、家族的な関係性)」、新藤景における「宮村(幼少期の関係の外からの「自由」の到来)」、新藤千尋における「日記」「小説」そして麻生(外部化された自分)、麻生における「新藤千尋(失われうる自分の幸福)」がそれぞれ、「記憶」を問題化する「異質」な存在となる*1
新海作品における「距離」にあたるのが、この多様な(悪く言えば整理されていない―そこまでの整理が必要かどうかは議論を要しそうだけど)それぞれの「異質さ」だろう。前回私は「他者はただそこに在るのみ」という認識が(正否は別としても)新海以降の作品の前提となっていると書いたけれど、『ef』においては傍観するのみではなくて、複数の他性の中から何を選択するのかという主体性が問題になっているという点で興味深いように思われた。新海作品に対して明らかに過剰な演出が目立つのも、このこととやはり無関係ではないだろう。
また、話題になった12話のOPに関しては、女性を男性が救っているというようにだけ見て事足れりとするのは狭小に過ぎるだろう。孤独と不安に苛まれ続けた登場人物が、「自分を見つめ続ける存在」が登場・確定することで救われるという解釈も必要だろう*2。見つめ続けることで誰かの不安を解消する=救える、という欲望は、オタクの欲望とはきわめて親和性が高く、そういう意味では、最終話にあのOPというのは射幸性の極めて高いテクニカルな演出だったと言わなければならない。ちなみに、記憶が問題になっている以上、『ef』においては、12回のうちOPにおいてヒロインたちが救われたのはたったの1回である(OPがなかった回があったように思うので、ヒロインたちが11回消滅したとは言わないが)。要するに、オタクが典型的に恐れるであろうことでもあるのだが、見落としや細部の欠落、記録の劣化によって、完全な保存はあらかじめ損なわれているし、あの12話のOPでもって、それまで消滅したヒロインたちが助かるわけでもない。麻生がどんなに苦労しても、日記はおそらく失ったページがあるだろうし、そもそも新藤千尋は日記にその日に経験したすべての出来事を書きとめられていたはずがないし、もっと言えば、麻生にいたっては日記すらつけていないので、仮に新藤の日記がすべて復元されたところで、自分で自分たちが経験したことを思い出すこともできないのだ*3
記憶、記録、創作*4において、意志や主体性がどのように機能するのか、それを描いた作品として『ef』を鑑賞するとき、その大地としての天空、その空気としての光(あるいは闇)の描写は、単なる即物的なセンチメンタリズムの道具ではなく、記憶・記録・創作がなされる「場」という重要な役割を担っている。記憶や記録とともに何度も回帰し、新しい記憶や記憶に交じり込み、そして創作においてはその都度、極限まで美化されたかたちで回帰するもの。
よって今後の大沼心作品や今後のすべてのアニメ作品を鑑賞するにあたって重要になるのは、おそらく、過去を改編しうる危うさをもった記憶・記録に混入して回帰してくる、創作における誇張された天空と光と闇とが、その都度の回帰のなかで、危うい記憶・記録と向き合う登場人物たちにとってどのように機能させられているのか、という点だろう(少なくとも私にとっては)。
今後は『true tears』を鑑賞する。プロダクションIGガイナックスなどの並居るハイクオリティなアニメ製作会社の下請けをしていたピーエーワークスによる圧倒的なクオリティの本作。テーマに共通するところが多く、かつ演出が大人しいので、落ち着いて鑑賞できそう。
とりあえず未整理だけど書いたまま保存しておく。

*1:麻生における「新藤千尋」は、宮村における広野に近く、この意味でふたつの物語は、明示的にではないかたちでも交差する。すなわち「失われうる恋人と過ごす時間」。これは新藤千尋新藤景もそれぞれ麻生と広野に対して抱いており、それを不安なまま抱くのが恐ろしくて新藤千尋は麻生との関係を終わらせようとした。新藤=麻生にとっても、堤と新しい恋を開始しようとする新藤景にとっても、「恋人と過ごす時間」が失われうると同時に、常に新たに生み出すことができるということが救いになっている。

*2:もっとも、結局のところ視点を占めうる人物がいずれも男性であり、消滅の不安に苛まれるのはどれも女性であるという設定には難色を隠すことはできないわけだけど

*3:そしてこれは現実の通常のカップルが経験していることだけれど、よっぽど記念碑的なことを忘れているのでもない限り、そしてそれが悲劇的ドラマチックなタイミングで発覚しない限り、重大な問題にはならない

*4:この三つをナイーブに並べたままにはしたくないのだが、このナイーブさもとりあえずは必要な態度に思われるため、やむなく放置する