「ある政府高官(大臣クラス)がサディストなのだ」と事情通を気取る某氏に聞かされた時、その村上龍的というのもくだらない戯画的な現実感に思わず噴飯した。問題はそのスキャンダリスティックな性格ではなく、またそういった人間を行政の要所に嵌め込むことの是非ではなく、そういった人間こそがその位置に相応しいと、国家というシステムが判断しているという事実だと思う。その政府高官が誰であるかということは全然重要ではない。恐らく行政にかかわるすべての人間がサディストたりうる。そしてサディズム自体は悪ではない。

暴力を行使するという欲望を持った人間が、その欲望の赴くままに暴虐を行い、またそれが是とされるような状況が、いま進行していることをまず認識すべきだ。暴虐は、「彼ら」の愚鈍から生じているのではない。恐らく彼らを指して「愚鈍」と言って蔑む者の誰よりも、「彼ら」は賢い。記憶力も思考力も、その量においては優越しているだろうし、何よりも「彼ら」はその欲望に突き動かされるままに情熱を注ぎ、その「業務」にあたっているのだから。彼らは「正義」を行うつもりなのだ。政治家や官僚、大企業の重役の「業務」に、自分が就くことを想像してみればいい。その苛酷さが理解できない人は、いかに深刻な顔つきをしていても「社長島耕作」を読んで島耕作に憧れるボンクラと大差ない。尊敬され、大権を与えられる人には、それなりの資格の根拠があるのだ(例外は常にあるけれど)。残酷で洗練に欠けるけれども、そこには「正当さ」が拭い去ることのできない濃さで刻印されている。

だからこそ、メディアのうえではクールを装って、平然と暴虐が扱われ、あるいは白々しい同情の顔と声が、これみよがしに飛び交うのだろう。選りすぐりのエリートによる行政に対して、地道な反抗を試みることが、どうしても個々人の生活において「非効率的だ」と思われるからだ。メディアで流通する情報を問題にしている限り、状況が分析されるだけで、それらの状況を覆う認知限界の傘を超えて「剛腕」を振るう「彼ら」を止めることはできない。当然その犠牲者は、互いに傷つけあい、殺し合い、殺伐とした環境で互いを蔑み合う状況も変わらない。冷徹な知性と能力とが、「正しく」、余剰な生命や生活を切り詰めていく。農園の雑草を抜き、農薬を撒くように。

では何を私はするべきなのか。まるで見当がつかない。

バラードの『クラッシュ』を読み始めているのだけれど、これをエンタメとして楽しむ以上のことが、私にできるのだろうか。ヴィリリオの「事故学」と組み合わせて考えてみたいと思うのだけれども。

秋葉原の事件、西成の暴動、宮崎勤の死刑の執行。「愚鈍」を装った問題のすり替えがまだ演じられている気もする。でも問題はそこにはない。ただ悲しみと倦怠と厳しさがあるだけだ。