『アンチ・オイディプス』17日目
第三章 未開人、野蛮人、文明人
第二節 原始大地機械

領土性の観念が曖昧なのは、見かけのことでしかない。というのも、これを住居の原理または地理的分割の原理として理解するとすれば、原始社会的機械が領土的なものではないことは明らかである。

ただ<国家>装置だけが領土的であろう。

出自は行政的かつ階層的であるが、縁組は政治的かつ経済的なのである。

子供の生産において、子供は、父か母との離接的系譜にしたがって登記される。ところが逆にこれらの系譜は、父と母との結婚によって表わされる接続の仲介によってのみ、子供を登記するのである。だから、縁組が出自から派生することは、どんな場合にもありえないのであり、縁組と出自は、本質的に開かれたサイクルを形成している。このサイクルの中で、社会体は生産に対して作用し、また生産は社会体に反作用を及ぼす。

出自が、規定されていながら、支配的であるものを表わしているならば、縁組は、規定するものを表わしている。あるいはむしろ規定された支配システムの中に、規定するものが回帰してくることを表わしている。したがって、本質的なことは、一定の領土の表面で、具体的に縁組はいかにして出自と組み合わされるのかを考察することである。

純粋な遊牧民など存在しない。いつも、すでに野営地が存在し、そこでは、わずかでも貯蔵(「貯蔵」にルビ:ストック)すること、また登記し配分すること、結婚し食いつなぐことが問題なのである

親子関係は、生産の流れであると同時に登記の連鎖であり、出自のストックであると同時に縁組の流出である。あたかも、このストックが登記や登録の表面のエネルギーを、つまり外見上の運動の潜在エネルギーを構成するかのように、すべては生起するのだが、負債とは、この運動を現働的に導くものであり、登記の表面における贈与と逆贈与のそれぞれの軌道によって規定される運動エネルギーである。

―機能障害は、社会的機械の作動そのものの部分なのである。このことは、残酷のシステムのとるに足らない側面ではない。いまだかつて不一致も機能障害も、社会的機械の死を告知したことはない。それどころか社会的機械は、みずからが巻き起こす矛盾、みずからが招く危機、みずからが生み出す不安、そしてみずからを回復させる地獄の試練によって、いつもみずからを養うのである。