αシノドス07号をようやく読み終えた

以前に荻上チキ氏と宇野常寛氏をまとめて「ネオリベ」系の批評家だと言ったらコメント欄で「ネオリベってどういう意味で使ってんだ」とご指摘をいただいたこともあり、もともとアヤフヤなのによく使われてて気になる言葉だよなあつくづく、と思っていた「ネオリベ」あるいは「ネオリベラリズム」ですが、αシノドス07号では最近注目を集めている白井聡氏をゲストに迎えて「ネオリベラリズム」について議論がされていました。
結局、わかりやすい結論や主張は出てこなかったんだけれども、現状や問題の見通しかたとして

また、前説的に芹沢一也氏が補足していたところでは

  • 自由主義に対する思想として民主主義を想定する考え方(シュミット)がある
  • 自由主義(多様性と競争を原理とする)による議会主義は多様な主張を調整しようとする
  • 民主主義(同質性と平等を原理とする)は全体主義を志向し、人間の集団を生成しようとする
  • かつて全面化しようとする自由主義に対して、レーニンもシュミットも民主主義によってそれを超克しようとしていた
  • レーニンと、その同時代人カール=シュミットとの並行性に白井聡は注目している
  • レーニンは革命的プロレタリアートを、シュミットはドイツ民族を生成しようとし、それぞれプロレタリア独裁ファシズム独裁を導いた

ちなみにこの「前説」的な文章で芹沢さんは「同質性と平等を本質とする民主主義的な集団の生成と、差異と多様性をはらんだ自由でハイブリッドな集団の生成、はたしていずれに思想的な可能性があるのだろうか」と書いているんだけど、実際の対談では白井さんは「(著作では)そこまで手が回らなかった」としつつも「歴史的考察ということで本当は何をやりたかったのかというと、自由主義と民主主義というものの相克という問題です。」と言ってるので、「民主主義と自由主義のどちら?」と言うアオリはちょっとなと思いました。

*1:旧来のリベラリズムネオリベラリズムとは思想としての明確性な全体性が欠けているという共通点があるが、時代ごとに「敵」が明確だった旧来のリベラリズムに対して、ネオリベラリズムには明確な敵が存在しない