そして宇野×市川対談

この対談が、上記の白井さんをめぐる議論と同じ号に掲載されているところにシノドス編集部(=荻上チキ氏)の意図を読み取るのは誤読なんだろうか?あからさまに宇野さんが利益(雑誌の売り上げ部数)を重視した議論をしていることとか、「早稲田文学」が「文学のキューバ」とか呼ばれて*1問題視されたりしているところに共通点があるような気がしないでもなかった。
宇野さんが嫌悪されるのは、ひとつには議論が切れ味鋭いために、きられた人たちが嫌がっているというのがあると思う。それは批評家としては優秀なんだろうと思うんだけど、その反面で、やはり議論がスピード重視で乱暴に運転されている感じがあり、それはそれで嫌われているんじゃないかという印象が強まった。
そもそも「文体」で何かを語ることの威力が廃れてきている、それは国民国家が弱まってきているからだという宇野さんの意見は誤っていると私は思う。「文体」はメディアの形態に左右されるところが大きく、ケータイやインターネットやテレビやラジオといったメディアが並立してそれぞれ重なりながらユーザーを持っている現在、かつてのような「活字*2」の威力が相対的に落ちてきている。「活字」というメディア群において「文体」に凝ることである種の政治性を帯びることが操作的に出来た時代が遠のいているように思われるのは、私見では、エンターテインメントの市場におけるこのような「活字」メディアの相対的な地位低下によるものなんじゃないか。
芹沢一也氏がαシノドスのvol.5のコラムでも書いていたけれども、小説や新聞が国民国家を構成するという議論はかなり乱暴だ。それは今回の対談でも、市川さんのほうからやんわりと

今日、仮に「国民国家」の機能が落ちているとして――ぼくはこの点については、否定的な意味で、そうは思いませんが――、そのことが「文体」の問題だけに直結しているのか、「文体」と国民国家が等値される形で論じられてよいのか、という点が疑問なんです。もちろん、「文体」も、国民国家的なシステムを形成したものであると同時に、そのシステムが生みだしてきたものの一つでもある。けれども、国民国家的なシステムは日本の「文体」だけをつくったのではなくて、例えば義務教育のような教育システムそのものもつくりあげたし、刑法もつくりあげている、風俗もつくりあげている。様々なものをつくりあげたうちのひとつとして、「文体」があったわけです。

けれどもさっきの宇野さんのお話でいうと、そのなかで「文体」だけは過去のものとされて、教育のシステムとか刑法のシステム、あるいはまさにそれらの集合体としての「空気」はいまも生きている、と肯定的に言われるわけですよね。さらにはケータイ小説の「物語」、プロットとか、キャラクター小説のキャラクターとか、それらはなぜ、「文体」のように過去のものにならないのですか。

という指摘がされていた。

そしてケータイ小説の重要性についても、それはプロットが優位だからだと宇野さんは言っているけれども、これも私見だけど、あれはケータイそのものが書店やPCでのウェブよりも流通インフラとして強力だということが理由であって、ケータイ小説のプロットが強力だというのとは違うと思う。

・・・もっとよく考えたいんだけれども、気にするべきことが多岐にわたってるためまた疲れてきた。以前に触れた荻上氏と宇野氏との対談も読み返したいし、あとほうぼうで話題沸騰・絶賛されまくりの速水健朗氏の『ケータイ小説的。』も読みたい。今回はこれだけにしておきたい。自分の考えがまだぜんぜんまとまってないな、、、。

*1:軽い感じではあるけれども

*2:これはこれで多様なメディア形態をもっていたけれども