『ハプニング』観てきました。

美しい映像、シャマラン映画に一貫するスタイル、明快な倫理性。今回もシャマラン好きの私を落胆させない完成度でした。「今までの作品は全部好きだけど、今度のはダメ」という人は、シャマランをよくわかっていないに決まっている。というわけで、以下に感想を書くけど、これから劇場で見る人には出来れば観てから読んで欲しいと思う。
http://movies.foxjapan.com/happening/

予告編でも使われていたけれど、空で雲が不気味に動くさまを早送りにした象徴的なスタッフロール(予告編と本編では使われ方が違ってるようだけど)や、次々と降り注ぐ身投げ自殺者、あと林の木立が風に吹かれてざわめく感じなど、動画ならではの美しくて象徴に満ちた映像が全編を通して矢継ぎ早に繰り出されまったく飽きなかった。シャマランの映像へのこだわりは、もっと評価されるべきだと思う*1。これも予告編で使われていたけれど、壮年の女性がガラスを頭突きでブチ破るシーンとか壮絶だった。
今回、明確に読み取れたテーマは
・意味不明の恐怖
執拗に描かれる「原因の推測」が、結局最後まで回答を得られないまま終わる。結局のところ解明できない恐怖。これは繰り返し語られるが、たぶん教訓ではなくて、虚構制作者としての倫理なのだと思う。それを解明する努力はされるべきだけれども、特定の仮説に囚われてしまうことは、作中にでてくる人災に繋がる。ちなみに「自然の脅威(植物原因)説」は、中盤のモデルハウスのシーンで象徴的に退けられていると読むべきなのではないかと私は思っている。そういうわけで映画のキャッチコピーである「人類は滅びたいのか」というのは、自然破壊がいけないというエコロジーと結び付けて理解すべきではない。少なくともそれに囚われるのはシャマランの意図にそぐわないと思う。
・死の衝撃が軽んじられていく過程
一回ごとの「死」はそれなりに衝撃的なのに、それが繰り返されたり、メディアを通されたりすると変質してしまう。あるいは、降り注ぐ身投げのシーンで描かれていたように、一人目の死者は憐れまれるが、連続で死にだすとパニックで憐れみどころではなくなるということ。重みなく響く銃声。不潔感のない死体。滑稽なほど身も蓋もないさまざまな自殺。それにしても動物園のシーンは酷かった。なんだあの腕のモゲかたは。だがその滑稽さや重みのなさはリアルなのであり、それゆえに私たちは現実でむしろいつも漠然と死にたい気持ちになるのではないか。
・目の前の人を守るための嘘(のようなもの)
これは恐らく、シャマラン自身のライフワークである映画(そして虚構を制作することすべて)の象徴であり、彼自身の希望だと思うのだけれど、今回はあまり徹底して描かれていなかったかも知れない。その点、『シックス・センス』や『ヴィレッジ』は成功していたと思う。『ハプニング』で言えば「ムードリング」がこれにあたるんだろうけど、もうひとつ、ジュリアンがプリンストンでパニックに陥りそうになりながら数学の問題を考えるシーンが結局のところ絶望に終わる一連の流れを考慮すると、シャマラン自身がこの「希望」について楽観性を失ってきているのではないだろうか。
・愛する者同士が離れて居ること
これも予告編にあったシーンで、糸電話状になった母屋と納屋に離れ離れになったエリオットとアルマとか、どんどんバラバラになっていくジュリアンの家庭とか。でもこれは相当に「とってつけた」感があって、正直なところ監督がどういう意図なのかわかりかねる感じだった。
といったところか。
「原因不明の恐怖」を描く監督としては日本では黒沢清がおそらくもっとも有名で、『叫び』へのオマージュが『ハプニング』でもアイコン的に使われていたと思う。また、植物が人を襲うとか、身投げの描写とか、黒沢清との類似性(あるいはオマージュ)はかなり露骨。しかしそれを一種の「ムード」としている黒沢清に対して、シャマランは何か、それを描かなければならないという強迫性に駆られているかのように、毎作で最重の要素として使っている。恐怖の原因を明かすことも、原因が明らかな恐怖を描くことも、虚構制作においてはかなり簡単に実行できる。というよりも、こうこうこうなってこうなりました、と「順を追って」描写すれば簡単なのだ。そしていわゆる「リバースもの」ではそこを少し弄ることで、作品が高級なものになったかのように称賛される。だがそれをシャマランはまるで嘲笑するかのように、「原因」や「原因にたどりつく過程」を吹っ飛ばす。私には「原因などというものは悪性の虚構にすぎない」と主張するシャマランの声が聞こえるような気すらする。すべては仮説と解釈に過ぎないのに、特定の仮説に囚われてしまう弱さから人は自由になれない。シャマランはまた、仮説に囚われることの暴力性についての見解も、堅固に一貫している。
死が軽んじられていくことの描写も、それと相容れないはずの死の重みを架せられる(親しい人に死なれる)人の描写も破たんなく両立していたし、今までの明解だけれども安易と言えなくもなかった「嘘」が希望だというスタンスへの疑念(しかしそれは虚構制作者としてはかなり危険な自己批判になる)の正直な顕在化といい、今回も誠実な作品だったと思う。そういう点でも非常にスリリングに鑑賞できたのが良かった。

*1:撮影監督はタク・フジモト