ジャパノイド宣言

今日は『アンチ・オイディプス』も『自我論集』も読み進めたけど、いまいち引用したいところがなかった。『アンチ・オイディプス』は大地と領土(というか、専制君主制における脱領土性)、『自我論集』は抑圧という、それぞれ重要な概念が扱われていながら、なんでなんだろうか。
代わりというわけではないが、以前から読みたいと思っていた巽孝之の『ジャパノイド宣言』を読み始めてみた。

1980年代後半には、第四世代として中井紀夫(略)らが登場。彼らにとっては、英米SF以前に、高度資本主義下で「日本を書く」ことそのものがSFとなった。かつてアメリカがSF的未来だった時代は終わり、今日ではギブスンのように「日本」という記号内部にこそSF的現在を幻視する方向が典型的である。仮想国家・日本の形成。

従来のビッグサイエンスを扱うSFが巨大な科学文明を描いたいっぽう、サイバーパンクがマイクロエレクトロニクスの成果に根ざしてもっと微小な電脳文化を描くのだとすれば―それによって科学文明の枠組を逆照射しようとしたのだとすれば―そのヴィジョンはまさしく60年代ニューウェーヴの時代、荒巻義雄サルバドール・ダリJ・G・バラードに想を得たハイテクSF中篇「柔らかい時計」の世界を連想させてやまなかったのだ。

ここで簡略化を恐れずひとつのわかりやすい図式を作ってみれば、こんなふうになるだろう。つまり、<火星のダリ>があくまでシュールレアリスム言語の使い手だとすれば、内臓をサイボーグ化されたヴィヴィというのは、ダリ家の血筋でありながら無限に逸脱しかねない新たなる主体、すなわちSF言語の使い手なのであり、両者を観察しつづける<ワタシ>は、まさしくシュールレアリスムとSFの相剋を証言すべきニューウェーヴ以後のSF読者自身にほかならない。してみると、<ワタシ>はおそらく、祖父と孫娘の対立の内部に、シュールレアリスム言語をいまにも食べさせられそうになりながら、その一歩手前で決して呑み込むまいとするSF言語の抵抗を目撃したのだ。<火星のダリ>の多食症を食い止めないかぎり、火星の時空構造はおろかSF的本質そのものが脅かされる。そこで主人公の<ワタシ>は画策し、食べるという行為そのものに根底的な恥辱をおぼえるヴィヴィに向かってむりやり柔らかい「家具の切れはし」を呑み込ませ、その刹那、彼女自身も明白にはつかんでいない肉体上の秘密を暴露する―「ヴィヴィさん。あなたの臓器はね、実は機械なのですよ。地球で交通事故をおこしたときに、入れ換えられたものなのです……」(徳間版、211ページ)。その瞬間、ヴィヴィは猛烈な精神エネルギーを発散し、周囲の事物一切を拒絶し吹き飛ばしてしまう。かくして<ワタシ>は<火星のダリ>の世界を停止させ、みごとヴィヴィ獲得に成功する。

ジャパノイド宣言―現代日本SFを読むために

ジャパノイド宣言―現代日本SFを読むために