『×××』の試写に行ってきました。

なんか不安なんで映画のタイトルは伏せ字にするけど、読んだらわかる人にはわかるはず。

『×××』は血と痛みを求めてやまない類のバカから、映画を深読みせずにはいられない類のバカまで観客を選ばない立派な作品だ。


映像と音響のテンポがよく練られていて、冗長さをまったく感じさせない。(撮り方が巧いだけかも知れないけど)堂に入った俳優たちの演技は安心して映画の世界観に浸らせてくれる(浸る当の世界観自体はまったく観客を安心させてはくれないのだけれど)。手抜きのまったくない残酷なスプラッタ描写は多彩で、「これからどうなっちゃうの?」「そうきたか!(あちゃ〜)」という意外な展開もあれば、「あ、ああっ!ほんとうにそれやっちゃうの?!」「ぎゃあ〜!本当にやりやがったコイツ!」みたいな予測してしまうがゆえに「痛い」展開もてんこもりでまったく飽きさせない。ちなみにヒロインもどんどん限界に追いやられ、ずっと震えている。観てるこっちも恐怖と絶望のリフレインに興奮させられっぱなしでガタガタだ。あんまりガタガタになって、しまいにはいったい何が怖かったのかすらよくわからなくなってる自分がいた。ただ「何か」が怖かったことだけは確かだ。

映画の舞台はパリ郊外で起きた暴動のさなかから事後の時間帯で展開する。物語のなかでまず最初に犠牲者になるのはその暴動でも主役を演じていた「パリ郊外」に住む移民の若者たちだ。「移民」とは何なのか、考えたことがある人たちはいるだろうか。国を追われた人たちのことだ。では「国」って何なのか。日本の多くの人々には関心が薄い問題だと思われるかも知れない。そして実は、アメリカにもそういう「国の問題なんて知ったことか」と考える人が多く住んでいる。犠牲者となる主役グループの一人が、テレビを見ながら言う「フランスもじきにアメリカになる」という言葉はかなり一面的な絶望を表わしている。なおフランス映画はずっとアメリカ映画に経済的・興行的に抵抗し続けてきた歴史があるわけだけれど、それはとりあえず今回は言及するだけにしておく。日本は20世紀半ばの敗戦以来、ずっとアメリカの支配下にある。日本はずっとアメリカ化し続けている。中国人や朝鮮人を町中で見かけ、義務教育の過程でクラスメートとして接したり、親戚が恋愛したり結婚したりしても、移民の問題に関心を持たないようにしている自分たちがすでにアメリカ化していることを忘れている。

でもアメリカって元々「移民の国」だ。「原住民」を追いやって、アフリカから奴隷を引き連れた白人たちが征服して打ち立てた国だ。『×××』の冒頭で語られる「人間は自由だ」っていう言葉を叫びながら、自分たち「人間」の自由のために未開人を蹴散らし、隷属させながら打ち立てられ、そして今でも運営されているのがアメリカだ。ちなみにヨーロッパから見てアメリカ「大陸」を開拓した先にある、ハワイ諸島の、そのさらに先に日本の列島が横たわっている。「ここ」もまた×××なのだ。

×××という言葉には「国境」という意味があり、劇中に出てくる標識にもその意味が含まれている。でもアメリカで「×××」と言ったら「×××スピリット=開拓精神」を指すように、開拓のことを指す。この「開拓」というのは、森を切り開いて荒野を耕すように、未開人を征服して合理社会を打ち立てるという意味を歴史的に負わされた言葉だ。国内をほぼ開拓しきったアメリカが第一次世界大戦後に国際社会に乗り出した頃から、合理社会とは英語と国際貨幣が支配するようになっていた。敗戦国となったドイツや、20世紀後半にとうとう倒壊したソビエト連邦では、その仕組みに対抗するために生み出された思想(ファシズムやナチズム、マルクス・レーニン主義)が、自国・自民族の利益を守るために支持されることになった。フランスは第一次大戦では形式上の勝利を得たけれども、戦争で疲弊し、国債においてアメリカに負い目があり、そして第二次大戦ではナチス・ドイツの餌食となった経緯がある。つまりアメリカとドイツに蹂躙された国なのだ。『クリムゾン・リバー』などのフランス映画にナチス・ドイツが登場するとき、それはアメリカ映画に拮抗しようとするフランスの自戒も含まれている。ハリウッドに代表されるアメリカ文化としての映画のほかに、実はその鬼子としてナチスが導入し利用したドイツ映画の血塗られた栄光の歴史もあるからだ。「フランス映画」はハリウッドにもナチスの映画にも倣うようなことがあってはならない。

こういった「対」開拓の闘いや、国境の緊張感の問題は、繰り返すように、アメリカでも、アメリカ化されるフランスでも、アメリカ化される日本でも、アメリカが覇権を掌握していく世界のどの国でも、忘れられがちな「ごく一部」の問題にすぎない。しかし、どの国、どの文化圏でも問題になることなのだ。世界的に見れば小さな問題ではない。その問題に、『×××』は原題からして触れている。『×××』の原題は『FRONTIER』ではない。『FRONTIER(S)』なのだ。

ぎこちないとはいえフランス語を話すナチの元将校らしき「パパ」、そしてもっぱらフランス語を話すその子供たち。そして「純血ではない」のにヤスミンが長男の妻に迎えられ、彼女が長男の子ではない(そして彼らにとっては「誰の子かもわからない」)子を身籠っていることが問題にされず、むしろ歓迎されていること。ここでは歴史に残っているナチの思想がすっかり堕落している。しかし政治経済の世界では、常に思想は堕落したかたちで実現される。堕落した思想は、リアリティの世界で機能するから恐ろしい。そこでは、形骸化して利用されるだけの一貫性を失った形式と、誰が利用しているのかもわからなくなったテンションだけが、グダグダになりながら持続していく。日本でもアメリカでも、民主主義の世界では誰でもが親しんでいる状況じゃないか。

ナチが恐ろしいのは、そしてナチ化しつつあるようにも思われるアメリカが恐ろしいのは(そして世界中がアメリカ化するのが恐ろしいのは)、「純粋な」政治経済の要請の前に仕方なく、「沈着冷静な」職人の手つきでもって、残酷な仕打ちが実行されることが、あたかも正しいかのように、いや「正しいこととして」認められていくからだ。スプラッタ映画を見る人なら誰でも知っているように、残酷な行為を目の当たりにすることには病みつきになるような快楽が伴う。それは映画の確かな快楽の一つだ。そしてそれは要するにメディアがもたらす快楽の重要な一要素なのだ。これを利用したのがナチス・ドイツで、そしてアメリカもいまこれを利用している。お金を払って映画を観て、テレビの広告に取り巻かれて日々の買い物をしている人たちはこのことを覚えておくべきだ。仮にすぐに何もできないとしても。「覚えておくべき」と言われても忘れてしまうだろうけれども。

ところで、一般に考えられていることとはちょっと整合性がないのだけれど、実は一人の人の精神には男性的な部分と女性的な部分が同居している。英語で考えるとわかりやすいのだけれど、男性=Man=人間、女性=Woman=?というわけで、女性というのは「男性=人間」とはちょっと違うものとして考えられている。だがどんな男性も完璧に自分の非人間性を捨て去ることはできない。非人間性を捨て去ろうと努力することはできても。そしてもう一つ、Man=人間じゃないものと考えられている性質がある。それは子供だ。「子供はやがて大人にならなくてはならない」という表現がある。「大人になる」というのは英語では「Become a Man」。つまり大人になっていない人間は、まだ十分に人間になっていない存在とされている。まして、ちまたでよく目にする表現で「妊娠した妻は人が変わったみたいになる」という言われ方もよくする。妊娠中の女性は、子どもとセットになって二重か三重に「非人間的な存在」として決めつけられる。

いっぽうで、立派な人間になったと自任できるような男性たちは、彼らはあまり認めたがらないようだけれども、非人間性を捨て去ることができない。彼らが体現する「人間性」が、もし「非人間性」を完全に捨て去れるようなものであったとしたら、何千年と続く人類の歴史の中でそれは勝利をおさめ、現代はもっとずっと合理的で快適な世界になっていただろう。でも実際は違う。まだ人間性と非人間性は闘いを繰り広げている。ナチスアメリカも、フランスも日本でもそうだ。どちらかが正しいという問題ではない。正しさを目指す欲求と、その欲求から何かを引きずり降ろそうとする欲求との闘いだ。そしてこれはおそらく決着がつかない。人は死ぬ。恐怖や痛みに怯えてしまうし、理想を叶えられないことがある。叶えられない理想を抱かされ、それを信じるしかない、と信じることしかできないときがある。そして信念の力で、何かを実現してしまうこともあるのだ。この何かを実現してしまう「信念」は、正しさだけを目指していては手に入れられない。正しくないかもしれないが、「正しいかどうか」という疑念を捨ててでも実現しなければならないという自己暗示がどうしても必要になるのだ。この信念を象徴するものとして、「立派な人間」たちは女性と子供を利用してきた。「正しいかどうか」という疑念を捨て去る理由として、恋愛や家族、そして血統(家系や民族、そして国家)を持ち出すのだ(あるいは、それらを守るために必要なものとしての「金」)。その限りで、立派な人間は常に女子供を必要とする。否定し罵倒し蹂躙する癖に、女子供が必要なのだ。『×××』の主人公は、だから妊婦である必要があった。

もっとも、映画とは少し外れるが重要な点として、女子供を必要としない「立派な人間」もいる。みずからのうちに女子供を認める人は、自分のうちの女子供を否定し罵倒し蹂躙することで「自分を高め」ていく。彼らが目指すのは抽象的な理想だ。それは増幅していく金融資本の金額かも知れないし、拡大していく政府の権力かも知れない。そのときの彼らの姿は、しかし傍目には遊戯に熱中する子供か、ものすごい形相で化粧をはたく女性と相違ないものに見えるだろう。それが「正しい」かどうかはもはや余人の知るところではない。ただ恐ろしい力がそこに発生するだろう。

『×××』が感動的なのは、登場人物の誰もはっきりとはヤスミンのお腹の子供を殺そうとしないし、またヤスミン自身も自分のお腹の子供を守るためにと言って戦ったりしないことだ。ヤスミンは自分のことを考えずに中絶を迫ろうとする男に怒るが、しかし出産することに深い不安と迷いも感じている。妊娠しているがゆえに主人公集団のなかではただ一人、命を助けられるが、これは仲間たちを惨殺した悪人たちに取り込まれることも意味している。ヤスミンはそれを撥ねつける。映画のラストが悲しいのは、いったい彼女たちが何のために戦っているのか、そしてこの映画で描かれている時間帯のあとに、彼らがどう生きていくのか、想像を絶しているからだろう。その意味で劇中の音楽が一転して物悲しいものになり、スプラッタ映画とは異質のニュアンスが生じてくるあたり、監督は相当に意識的であると思われる。そしてスタッフロールで流れるエンディングテーマ曲で歌われる言葉。「私は怪物だから、あなた私を殺してよ」。それが英語で歌われていること。

「何にせよ生き延びられたのだから、お腹の赤ちゃんも無事だったし」と誰が彼女に言えるのだろうか。果たして私は何が「怖かった」のだろうか。今でもよくわからない。