『スピードレーサー』観てきた

昨日、新宿ミラノで。「たけくまメモ」と「たけくまメモ」でリファされてた小飼弾氏のブログ、そしてその小飼弾氏の奥様の「いいから」に触発されて。感想はひとことでまとめると「劇場で観られて本当に良かった。インターネット、そして竹熊健太郎氏と小飼夫妻、あと『スピードレーサー』の関係者全員にありがとう」*1ということになる。
以下ネタバレが含まれているけれど、独断によると(ここでネタバレしようとしまいと誰も観に行かない気がするので)大筋のストーリーのネタバレではこの映画の体験の価値は損なわれないので、比較的細部には立ち入らないようにしてあるし、安心して読んでもらいたい。
さて、まずは「たけくまメモ」にも書かれていたけれど、この映画は予告編および広告の仕方の失敗のおかげでか、ほんとうに客の入りが悪い。実際、いざ観に行こうと思った私ですら、上映されている劇場の少なさと上映回数の少なさから、上映館を見つけるのに苦労した。それに加えて、ようやく上映館を見つけたものの、その上映館に『スピードレーサー』の看板がないのだ(!)。近日公開の『スターウォーズ』のアニメの看板の片隅に小さく「『スピードレーサー』上映中」と書いてある。なんなんだこの扱いは(笑)。この客の入りの悪さに反比例するように、上映されるスクリーンはでかい。客が少ないことでなんとなくひとまわりほどスクリーンが大きく感じられる気すらしてくる。映像が肝心な映画だということなので、これはとても嬉しい状況だ。
そして肝心の映画。まず映像はたしかに素晴らしい。『マトリックス』シリーズにあったようなストイックな色彩感覚は棄て去られ、脳みそに何かデタラメに電極を突っ込まれたような極彩色・高精細の映像が繰り広げられる。だがただ単に「映像がすごい」と言ってもこの魅力はなかなか伝わらないだろう。小飼氏も書いていたが、この映像のすごさはその明快さにある。予告編として上映されていた近日公開の『スターウォーズ』のアニメと比較するとよくわかるのだが、CGを多用して、高速度処理した映像がガチャガチャ動くだけだと、我々の眼と脳が追い付かないでただ圧倒されるだけになってしまう。その圧倒的な印象はそのままで、『スピードレーサー』では認知限界の域内ギリギリに要素がまとめられている。
これは恐らく、「重力とエンジン、そしてタイヤと運転手による動き」を制約として持つ、「自動車」をメインに据える原作選びから意図的だったと思われる。考えてみれば『マトリックス』でも基本的には人体という制約があったからこそ、あの映像表現の斬新さが際立ち、興行的にも成功したのだと言えよう*2。要するに、CGを使うことで「何が」そして「どのように」、「すごい映像」が展開されているのかが明確に理解されるように気が配られているのだ。それだからこそ、速過ぎて何が何だかわからなくなる一歩手前に観客を引き付けたまま、実写だけでは撮影できないようなレースが描けるし、私たちもそれを楽しむことができる。
ちなみに寡聞にしてほかで指摘されているのを知らないのだが、この作品は明らかに角川アニメの名作『迷宮物語』に収録されている「走る男」にオマージュを捧げている。海外で人気の高い川尻善昭監督の仕事なのでウォシャウスキー兄弟がこの作品を知っていてもまったく不思議はない。原作のアニメ版の『スピードレーサー』のエピソードもかなりの忠実度で取り入れられているし、これはかなりの意欲作だっただろう。
しかしなぜこの作品がいまいち話題になっていないのか。それは「たけくまメモ」にあるような予告編の失敗だけではないのではないか。私見では、日本の都市部に人口が集中し過ぎた結果、映画を劇場で見る層と自動車を日常的に使う層とが乖離しているということが原因だ。端的に生活に関係のない題材だから人々の関心を惹かないのだと言えよう。
加えて、原作が日本の古いアニメであるというのも良くない。さきほど書いたことと矛盾するように思われるかも知れないが、人は自分とは超然と隔絶されたモノに憧れる。アメリカ人にとっては日本やその他のアジアはまさに自文化から隔絶され超然としている憧れの対象になりうる*3。日本人にとって、カーレースが憧れの対象になるのは、それが他文化圏内で自分たちが活躍できるかもしれないからだ。その憧れが結実した原作アニメ自体が忘却されているというのに、しかもそれをアメリカ人がリメイクしているという。これが屈辱でなければ何なのだというのだろうか。つまらない冗談にしか思われないだろう。
なお、ストーリーについては、資本主義の金融家が仕組んだ出来レースを、才能ある若いレーサーがブッちぎるというもの。装飾として家族エピソードや恋愛エピソードも絡むけれど、この作品のストーリーから何か意義のあるものを抽出するとしたらこの「レースを仕組む金融家が敵だ」ということと、その「出来レースをブッちぎる才能が主人公」というところだろう。この敵の設定のリアリティと、主人公のサクセスの理不尽さの対比はきわめて強靭で、それこそが「レース」という、ルールに縛られたシステマティックな枠と、その中から感動が生み出されるダイナミズムを体現している。
劇中で主人公が母親から言われる言葉(だがその前には大金持ちからも同様の讃辞が述べられるのだが)として「あなたの走りはまるで芸術」というがあるが、これはそのままひっくり返して、『スピードレーサー』における走りこそが、(この)映画の芸術性なのだというのに等しい。大資本が投入された作品なのにも関わらず、監督を始めとする制作者たちの努力と信念によって、あのほとんど馬鹿としか言いようのない過激な疾走を大画面で目の当たりにできるということに、私たちは感動することができるのだ。

*1:ひとことにまとまっていない

*2:これは物語の中盤にでてくる忍者アクションでも同様だ

*3:このことは『スピードレーサー』でもことさら戯画化して描かれている。テジョとハルコのトゴカーン兄弟って何人なんだ!