メモ。社会主義と文学@近代日本とロシア

先日、近所に油そばを食べにいったところ何故か柄谷行人の『近代日本の批評』の文庫本が置かれており、ちょっと読んでみたところやはりとても面白かった。

もともとは宗教的な概念である「転向」が、マルクス主義者になること、さらにそれを放棄することにかんしていわれたのには、正当な理由がある。それは、たんにマルクス主義の運動がユダヤキリスト教的な宗教的な運動に似ているというようなことではない。むしろ日本において、ユダヤキリスト教的な宗教が、マルクス主義がもたらしたような「転向」の深刻さ、社会的な意味を与えなかったことにこそ、注意すべきだろう。
明治時代では、内村鑑三によるキリスト教が、きわめて厳格な一神教として大きな影響をインテリに与えた。そして、それは天皇制と衝突する事件をおこしている。内村が日本の近代文学に与えた影響は否定できない。しかし、それは内村からの離反、キリスト教からの転向としてのみそうだった。正宗白鳥有島武郎から志賀直哉小山内薫にいたる多くの文学者は、一時期内村のところにいた。内村のもたらした絶対的な他者は、彼らには耐えがたいものだった。この「他者」からの逃走は、彼らにおいて、内村個人への背反という形をとった。したがって、それは社会的な問題にはならなかった。彼らの転向は、それほど深刻なものではなかった。それはむしろ「自然」であり、のみならず志賀直哉のように「自然(じねん)」の肯定であった。

明治大正の文学者は、ある一定の読書人階級を相手にしていた。それゆえに、芥川的な洗練や、こじんまりとした技巧が可能だった。しかし、いまや作家は「大衆」を相手にする。この「大衆」は労働者とか農民とか、あるいは都市庶民といったものではなくて、いわば「抽象人」なのである。要求されるのは、大正的な作家からみれば抽象的な「観念」であり「新感覚」である。明治大正的作家たちは、たんにマルクス主義者によって締め出されたのではない。新たな読者層は、彼らをすでに古典として扱った。
しかし、こうした現象は文学や思想においてのみ生じたのではない。映画や演劇、ラジオ放送、広告、大衆雑誌と小説などがこの時期に広がっている。一言でいえば、マスメディアの拡大である。それが「大正的な」ものを事実上殺したのである。「新感覚派」というと、横光利一川端康成などがとりあげられるが、むしろ「新感覚」は、小説以外の領域から来ている。それは本来、村山知義などのアヴァンガルド芸術やシュールレアリズム詩の側から見られるべきものだ。また、それは「新青年」などによったモダニスト的な大衆文学にもっとあらわれている。
これに関連していえば、いわば「アメリカ」と「ロシア」という、西欧からみれば周縁にすぎない文明は、それまで西欧を中心に自己形成してきた「大正的」知識人には受け入れえないものであった。そこに、「深い精神性」がなかったからである。(中略)ロシアのアヴァンガルドやフォルマリスムと、アメリカの大衆文化は、西欧の「深い精神性」を斥け、テクノロジーの意味を認めるという意味で共通していた。

また大窪一志編集解説による『アナ・ボル論争』も面白かった。これは宮崎学の文章を探していて見つけたもの。イルコモンズ氏や矢部史郎氏の活動でアナキズムに最近関心が湧いてきている関連でも気になったことは確か。乱暴に言って、社会主義キリスト教アナキズムボルシェビキズムのように社会思想の潮流が変わっていったような印象がある。
ちなみに私は非常に怠惰な青春時代を送っていたがために、近現代史の素養がまったくない。上の引用部分がとても面白かったので、この際、ウィキペディアで調べて簡単な年表を作ってみた。

■19世紀末
1850年代 パリ条約でクリミア戦争終結ウィーン体制が崩壊し、
 このころ欧米列強の帝国主義路線がほぼ確定
1860年代 ロシアで農奴解放令→工業労働人口の増加
  ドストエフスキートルストイの代表作が発表される
  ロンドンに亡命中のマルクスエンゲルスが『資本論』を刊行
1870年代 内村鑑三キリスト教に入信@札幌農学校(北大の前身)
  パリでパリ・コンミューン成立→エンゲルスにより「プロレタリア独裁の実例」と言われる
1880年 ドストエフスキーが『カラマーゾフの兄弟』を発表、翌年死去
1881年 農奴解放令を発布したことで知られるアレクサンドル2世が暗殺される
1880年代 内村鑑三片山潜が渡米→80年代末に内村は帰国
        このころ大杉栄香川県に生誕
1890年代 黒岩涙香が「萬朝報」創刊
 (このころ日清戦争→独伊露の三国干渉→日本のナショナリズム高揚)
1890年代後半、片山が帰国、幸徳秋水が「萬朝報」記者となる
1898年 ロシア社会民主労働党が結成→ロシア社会主義の高揚
1900年 幸徳秋水片山潜堺利彦らにより社会主義協会が結成
 (このころ柳田國男が東京帝大を卒業、横山利一が福島県に生誕)
 (ロシアはこのころ経済危機→血の日曜日事件を準備する状況)

■20世紀初頭
1901年 内村鑑三『無教会』創刊、志賀直哉小山内薫らが聴講生
 同年、中江兆民幸徳秋水命名者)が死去
     黒岩、幸徳、内村、堺らにより「理想団」結成
     社会主義協会メンバーにより社会民主党結成するも即結社禁止となる
      (幸徳秋水を除くメンバーはすべてキリスト教徒だった)
1902年 正岡子規死去、小林秀雄が東京に生誕
      レーニン『何をなすべきか』出版
1903年 内村と幸徳が非戦を唱え萬朝社を退社し、平民社を設立
  同年 ロシア社会民主労働党がメンシェビキとボルシェビキに分裂
1904年 日露戦争勃発、「新潮」創刊
  日露戦争中にアムステルダムで開催された第二インターナショナルで、
  片山潜とブレハーノフが副議長に選出され会議場で握手
  社会主義協会も結社禁止となる
1905年 ロシアで血の日曜日事件
  同年 日露戦争終結
  同年 夏目漱石吾輩は猫である」連載開始
  同年 幸徳秋水が渡米し、クロポトキン接触無政府主義に傾倒し始める
1907年 ロシアで第二国会が解散させられ、反動期に入る
1910年代 幸徳秋水大逆事件で処刑さる、永井荷風谷崎潤一郎を激賞
        明治天皇崩御第一次大戦勃発→終結
        芥川龍之介が帝大に入学、初期の代表作を発表
1917年 ボリシェビキによるロシア10月革命、ロシア帝国最後の皇帝ニコライ2世が処刑される
    (こののちロシアの首都機能がペテルブルクからモスクワへ)

第一次大戦
1923年 関東大震災
    甘粕事件により大杉栄がリンチで殺害される
    菊池寛が「文芸春秋」を創刊→大成功を収める
1924年 谷崎潤一郎『知人の愛』発表
    小林秀雄が京都山科の志賀直哉を訪ねる
    日本共産党が解党決議
    川端康成横光利一稲垣足穂ら「文藝時代」を創刊→新感覚派
    プロレタリア文学を代表する雑誌「文芸戦線」創刊
1920年代 大正天皇崩御、昭和が始まる
  ソ連建国、2年後レーニン死去→スターリン体制が始まる
  このころ、太宰治が左翼運動に傾倒
  芥川龍之介キリスト教を題材にした作品を発表
  また「筋のある小説、ない小説」で谷崎と芥川とで論争、芥川が服毒自殺
1933年 小林秀雄ら『文学界』創刊、ドストエフスキー論を連載
  同年 片山潜がモスクワで死去、15万人が葬列に参加

・・・・・・だからなんだというわけでもないんだけど。

近代日本の批評1 昭和篇(上) (講談社文芸文庫)

近代日本の批評1 昭和篇(上) (講談社文芸文庫)

アナ・ボル論争

アナ・ボル論争