シュルレアリスムと「図」的なもの

水声通信のシュルレアリスム関連の特集号を読み、「図」的なものについて考えを巡らせている。それは「壁の絵」(鑑賞の「場」と結びついたもの)と、「本の絵」(携帯性が前提されているもの)との中間にあって、「よりポジティブな」隠喩として鈴木雅雄が提唱する「図」。ちなみにこの「壁」と「本」の隠喩対立は林道朗が現代詩手帖に寄せたシュルレアリスム論で、日本画の研究を引き合いに出して使ったもの(こちらは残念ながら私は未読)。
図鑑の挿絵のような「図」という隠喩がシュルレアリスム絵画の理解に有効なのではないかというのが鈴木の指摘だけれど、林との往復書簡でも、またこの「図」という隠喩を取り上げての論考でも触れているように、(何故かその名が伏せられているが明らかに村上隆の)フィギュアの問題に繋がる。それは(これも何故か名前が出ていないが村上隆に関連する問題だが)ウォーホルのポップアートの議論と深く関連するものだろうが、水声通信を読む限りでは鈴木はそこまで踏み込んでいなかった。ような気がする。あらためてちゃんと読もう。
あとずっと読んでいなかった『モダニズムのハードコア』のロザリンド・クラウス、ちゃんと読もうと思う。
ちなみに村上隆スーパーフラットは、フラットテーブルにも掛けてあると思うんだけど根拠がない。ちなみにいま近代美術館では「エモーショナル・ドローイング」展が開催されているけれど、同時に開催している「壁と大地の間で」も面白かった。エモドロ展ではインド人女性アーティストによる、日本のエロマンガを題材にとり、大きな和紙に動植物の精細なスケッチやコラージュしたインスタレーションが良かった。
[rakuten:book:12871501:detail]
[rakuten:book:13022531:detail]