ポップとパンク

ポップとパンクは類似している。
ポップ・アート(およびポップ・アート以降のアート)に代表されるファクトリー形式の制作というのは、近代以前の徒弟制度的な制作スタイルと同じであり、それは「現代的であることが同時に中世的である」というパラドックス(「矛盾」ではない)が引き起こす眩暈めいた感覚を、ポップ・アートの制作論を語ろうとする者にもたらす。
しかしポストモダンに先駆けていたポップ・アートのこの性格は、むしろ近代性の特性のひとつであるところの「個性」への志向が済崩しになる状況においては当然のものであって、この当然性をそのまま引き受けてしまうなら気付かずに見過ごしてしまうだろう。
ところで、パンク・ロックというジャンルが1970年代末から80年代に興っていた。このジャンルは何だったのかという議論はまだ絶えないと思うけれど、一般に「反抗」精神や「怒り」の発露として語られることも多い。しかし今考えてみるとそういった姿勢そのものが「かつてロックは反抗精神をもって権威に対する怒りを表現していた」という文脈を反復したものだったはずだ。そしてそのパンク・ロックというのは、シンプルなロックを粗雑に演奏する。その「粗雑さ」が新しかったわけだ。その粗雑さはサイケブームの幸せな拙さや冗長とは違った、資本主義社会の構造に搾取され切った絶望に打ちひしがれ、まるでバッドトリップしかできないかのようなヤケクソの粗雑さだ。*1
セックス・ピストルズはポップ・アートを十分に意識したであろうマルコム・マクラーレンにプロデュースされ、すでに巨大な産業になっていたロックのグローバルな市場と広告戦略を利用して商業的な成功を手にしている。ヘブティジの『サブカルチャー』は記号論的・民俗学的な分析をしている。だがポップ・アートというのは、記号論民俗学的な分析だけでは捉えられない問題系を持っている。『サブカルチャー』は「過ぎ去った時代を掴みなおす」には役立つ良書だと思う(その訳の云々はさておき)が、資本主義に最適化されたアート=文化である「ポップ・アート」性が十分に捉えられていない。
ポップ・アート/パンクにおいては「個人」的なものは徹底的に粉砕され、戯画的なキャラクターとして再構築されて流通にまわされる。この流通過程においてポップ・アート/パンクは独自の市場を作り出し、利益を生み出すのだ。この市場主義的なスタンスがポップとパンクとに共通する。
アメリカのモダニズムが作品の自律性を追求したのに対して、ポップ・アート/パンクは市場の自律性を志向する。自律性を志向されても市場は消費者たちから他律性を絶えず引き出す*2。だがその評は端的に過ぎる。問題はそこから先なのだ。いっけん「意味がない」ように見えつつも、そこに消費者が無数の解釈を呼び込むようにコンテクストが練られているのだから。そのコンテクストの練り方をポップ・アート/パンクはロックと映画とテレビと新聞から学んだ。
さて問題はポップ・アート以降、パンクの登場以降の時代つまり現代の状況だ。ポップ・アートもパンクもその成功以来、このコンテクストの練り方においてノウハウを蓄積してきている。問題はモダニズム以前のテクニックの問題に再び回帰しようとしている。ただしそれはロックにおける電子機器(録音および再生のメディア、大ホールでの音響技術、ラジオ、マイクやギター、そしてエフェクター)や映画やテレビの写真技術や電信技術を介したスター性、薬学的な陶酔ではない心理的・性的な陶酔、新聞以降の大量に文字が溢れる言説環境、といったかつてない状況におけるテクニックの問題なのだ。
と、ここまでは別に目新しい話ではないと思う。それよりも興味深いのは、というかわざわざこんな話を書こうと思ったのは、経済的な格差が広がり、教育的にも地政学的にも二極化が進む状況を指して、「貴族」と「下々の民」とが分断された中世を反復する「新しい中世」として現代を呼ぶのと似ているな、と思ったからだった。だがそれはいわば人間主義の敗北に違いない。
「天は人の上に人を作らず」。しかし高度に発達した技術が、それを使うための知識の多寡および習熟度において人々を分断せざるを得ない世界を作り出した。この新しい「人の上に人を作る天」としての技術を前にして、思いつきと鼻息だけで突発的に抵抗するしかない人間主義は敗北を約束されている。
人間主義の敗北の残滓こそが、伊藤剛の言う「キャラクターの自律化*3であり東浩紀の言う「動物化」なのではないだろうか。そしてそこでは技術によって幻視される、現実から遊離した不定形のファンタジーが「終末を終えた人間主義」の幽霊として、人々にとりついている。未だに「天は人の上に人を作らず」だと思うことは原則的には可能なのだが、それは罠なのだ。逃れられない第二の自然として技術は人々を覆い、人々を分断し、上層と下層とに振り分ける。ポップ・アートとパンクとはこの二極化傾向にあるセカイを、反復と粗雑化の果てにある神秘的な消失点に一極化して幻視させようというダイナミズムでもって求心力を作り出す(実際には、どこまで行ってもセレブな「あちら側」と負け犬な「こちら側」とが洗濯機のなかの洗い物のように回り続ける市場があるだけだ)。
ポップ・アート/パンク以降の文脈を語ろうとしないアートファンや音楽家はすべてこのファンタジーに囚われている。もっとも、端にポップ・アート/パンクを礼賛する人々も、「それ以降の文脈を語っていない」という点において同じだ。
 

*1:ドラッグと粗雑さとの関係についてはジャズとかとも絡められてもっと複雑な話になるけど、今回は割愛する。ちなみに大麻系・LSD系・エクスタシー系・ヘロイン系的にラリり方からジャンルを説明することもできるように思われる。ちなみに日本の1980年代ポップソングには覚せい剤系が流れ込んでいるとするべきだろう。

*2:「パンクとは何か」という議論が絶えないことと同じである。この状況はなお「音楽とは何か」「ロックとは何か」「芸術とは何か」というかたちで既に先行していた事態の反復でもある)。この多様な他者性を無数の消費者から引き出して攪拌するために、ポップ・アート/パンクは市場を自律させようとする、と言ったほうが適格かも知れない。 無数の消費者を巻き込むために、ポップ・アート/パンクは複数の文脈を並列に目配せをすることになる。その様を指して「意味がない」と評する者もいるだろう((ウォーホルのバナナに何の意味があるのだろうか?

*3:自律化したキャラクターこそが「キャラ」だと私は考えていて、だからキャラを「前キャラクター態」とするのは微妙な気もする、