『サイバースペースは何故〜』東浩紀を再読

ユリイカInterCommunication連載時に眼にして以来、私が東浩紀に注目すべきだと信じるに至った論考が先だって講談社がまとめた論集にようやく収められたのでずっと再読したかったのだがタイミングが合わずにとうとう今日久しぶりに読み返し始めることになった。

登場人物の意識は現実空間かサイバースペースかのどちらかにいると決まっているので、小説の語りは単にその動きを追いかければよい。
このような小説技法の導入によって回避されたのは、結論から言ってしまえば、電子メディアの介入によって登場人物の「いまここ」が分裂し、彼らの意識自体が二重化する感覚、そしてその結果生じる電子的自己の「幽霊性」である。『ニューロマンサー』が想定しているほどの高度な情報技術は、本来は、小説構造そのものに影響する不気味な力を発揮するはずだ。しかしギブスンはそのような小説は書いていない。
ニューロマンサー』はしばしば、"サイバースペース・カウボーイたちのハードボイルド風ピカレスク・ロマン"とも称される。つまり、この小説は、舞台設定とそこに付随する諸イメージこそ「新しく」はあるものの、構造的には古典的かつ保守的な作品だと見なされている。「サイバースペース」はまさに、情報/メディア系のテーマを、古典的な小説構造、すなわち≪ひとりの人間がひとつの場所でひとつのことをする≫という前提で動く世界に導入するために設定された、巧みな隠喩だと言える。その隠喩は、本来は「ひとりの人間」「ひとつの場所」を二重化し解体するはずのメディアを、それ自体ひとつの「場所」として描き出すことを可能にしてくれる。

情報環境論集―東浩紀コレクションS (講談社BOX)

情報環境論集―東浩紀コレクションS (講談社BOX)