今夜の私は「SITE ZERO」の最新号刊行が嬉しくてしょうがない

さっきまでは気付かなかったのだけれど、どうも目次(および見開き試し読み)が更新されたらしく、カトリーヌ・マラブーの論考が掲載される模様。それもテーマが「ファンタスティックなもの」ということ。見開きをさっそく読んでみた。

その名にふさわしいファンタスティックなものがいずれもそうであるように、哲学におけるファンタスティックなものも、驚異的なものの現実の侵入、あるいは、異質なものの現実への侵入、現実のなかへの侵入である。とはいえここでは、現実に対する超過は、それが由来する存在論的な問題構制、およびそれが規定する現象に送り返されねばならない。すなわち、存在論的差異の現実における現れである。ファンタスティックなものとはこの現れ、つまり存在と存在者の差異の現実なのである。この現実を、レヴィナスサルトル、そしてナンシーは三人とも、実存[existence]と呼んでいる。
ファンタスティックなものとは、存在と存在者の差異の現実として構想された実存である。(中略)
ファンタスティックなものとは、存在と存在者の差異の現実として構想された実存である。この定義においては二つのことが目を引く。まずもって、「ファンタスティック」という語の語源に含まれた−ファンタスマ[イメージ]、ファンタスティケー[イメージ制作術]−イメージとの関係である。
(中略)
イメージと構想力の位置づけを明確にすることに心血をそそいだハイデガーは、イメージ(das Bild)をたんなる「幻想(ルビ:ファンタスム)」と混同することも、構想[想像](die Einbildung)を風変わりな空想(phantasie)と混同することも絶対になかった。しかし、と人は反論するだろう、レヴィナスサルトル、ナンシーも混同したりはしていない!と。しかしながら、彼らの著作を精読すれば、次のことが明らかになるだろう。すなわち彼らは、イメージと構想力をめぐるハイデガーの思想を転位させ、同時に存在論的差異の意味をも転位させ、さらに同時に、実存の意味を別の構想力[想像力:imagination]、別の差異、別・・・
(公開されているのがここまでなので)

ハイデガーサルトル、そしてナンシーにおけるイメージの問題、そしてイメージと幻想の関係について手がかりになる論考が欲しいと思っていたところにコレですよ。もう堪りません。あと「SITE ZERO」0号に掲載された「吐き気」についての論考が素晴らしかった宮崎裕助氏による「決断主義なき決定の思考 デリダavecシュミット」も非常に面白そう。デリダとシュミットと言われると、(未読なんだけど)デュットマンのことを思い浮かべます。やっぱり関連があるのだろうか。

友愛と敵対―絶対的なものの政治学

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