東浩紀の講義録を久しぶりに読んだ

↓うp乙としか言いようのないGJ
http://d.hatena.ne.jp/nitar/20081010
最近ようやく東浩紀自身も、かつて否定的に言及したり、「何書いたか自分でも覚えていない」的に言ってた初期の哲学的な仕事を再評価しているらしく、本人にとってはとりあえず「断絶」があったとかつて言っていた『動物化するポストモダン』の前後を「繋ぐ」ことをこれからやりたい、とかどこかで言っていた(id:sirouto2さんの理解と最近のK様からの批判らしきエントリに対する返答でもあると私は認識している)。
この議事録を読んでいろいろとまた考えさせられたのだけれど、まとめると以下のとおり。

  • 現在の東の倫理的な立場

『リアルのゆくえ』*1について、大塚・東の違いを東はこうまとめている。

動物化したら公共的でないという立場
動物化してもいい公共性を考えるという立場

しかしこうまとめるのは*2、あまりに東寄りの視点であって、逆にわかりにくいのではないだろうか。これを私は以下のように読み替えた。
動物化を前提とすることに抵抗する立場
動物化を前提として考える立場
当然ながら前者が大塚で後者が東である*3
私も東寄りの目線で大塚・東の対談を読んでしまう人間なのだが、私には大塚の態度は、東の「動物化を前提として考える」という立場に対して批判的であろうとするあまり、東の態度を単純化しているように思われる。東も議論の簡明を求めてか、単なるプロレス的なものかはわからないのだけれど、大塚に対して戦闘的に受け答えしすぎている気もしたが。
というのは、東は、部分的あるいはそのときどきごとの自身の「動物化」を単純に肯定しつつも、それに耽溺しきるのではないからだ。上に引用した東自身による「大塚・東の違い」とはつまり、「動物化を許容する公共性」を認めるか否か(認める→東、認めない→大塚)ということになるだろう。それをさらに抽象化すると「近代的な公共性=動物化を許容しえない公共性=近代的な「人間」に限定された公共性」のみを支持する立場(大塚)と、「それ以外の公共性=動物化を許容しうる公共性=「近代的な人間」に限定されない公共性」を模索ないしは支持する立場(東)ということになる。
私が強調したいのは、たしか宇野常寛との酔っ払いトークラジオ「アライブ2」の冒頭で東が大塚との対談を振り返って「インターネットが小さいと大塚は言うが、そんなことはない。インターネットの影響力は大きい」というようなことを言っていたが、そんなことはぜんぜん重要ではない、ということだ*4

  • 東にとってのメンヘル観、労働問題観、政治観

「ほかの軽薄なポストモダン野郎どもと大差なく、東も政治に無関心だ」という理解はよく目にするし、東自身その理解を内面化している(かのように振る舞っている?)発言を何度かしてきた。また、少なくとも部分的あるいはそのときごとの自分自身の「動物化」を許容している以上、政治的に無関心になるときが東にもある、ということも言えるだろう。だがそれはみずからもまた動物化を生きつつ、またそれと同時に可能な公共性を模索しようとする以上は避けられないことでもあるのではないか。
また東が現在のアメリカ的なスタイルにおける労働観を無視していないことは以下の部分の発言から推測できる。

大脳生理学が発達して鬱になったら抗鬱剤
脳を直にコントロール
自分の気持ちを変えることによって外界と調和する
それは危険な事
人間はもともと、周りの環境を変えようとして進んでいった
自分の脳を変えてどうするんだ
人間はもう進化、発展しなくなる、ということを強調して言う
あまり話題になっていないが、とても重要な本
西洋の哲学が何を重視しているかよく表している

新種のうつ病が色々あって、
職場でだけうつ病
休日とかは元気
それは今までうつ病だと見做されていなかった
病気だと気が付かれないことが多い
普通に考えてこれは病気じゃないんじゃないか
勉強の時だけうつになるとか言われたらキレる
アメリカの基準ではうつ病になったらしい

生きてて辛いなあと思ったときに、
俺はこの人と会っている時にだけ発症するうつ病だ、
そして薬を投与して解決する
ただ脳のなかだけが解決している
病気として認定する事はそういう解決を後押しする
フクヤマが言っているのは、自然の対立というのは、
その自然は社会環境も含む
職場の中で人と対立しているということが耐えられない
他者に働きかけるのではなく、自分の脳に突っ込む
それはもう動物
周りの環境と調和することだけが目的になってきている
調和は現代社会の鍵

perfumeもこういう歌詞にすれば素敵なのにな、とか思った←独り言
ちなみにこのフランシス・フクヤマの新しい方の著書も読んでないのだけれど、こっちは面白そうだから読んでみようと思った。「社会環境は変えづらく、個人個人の脳のなかで問題を解決するしかない」という考え方(たぶん現在のアメリカ的な人生観→ネオリベ的な経済感覚、労働観)に対する問題意識があり、そこにおける「環境」について考えているのであれば、それがどうして「政治的でない」と言えるのだろうか。

『動ポモ』には書かれていなかったと思うのだけれど、今回の講義録を読んで思ったことがある。それはコジェーブがアメリカにみた「動物」と、日本にみた「スノビズム」の、それぞれの社会環境的な前提について、コジェーブはかなり抽象的なものを想定していたのに対して、私個人はそのなかで生活していかざるを得ない以上は(笑)もう少し具体的に考えた方がいいのではないか、ということ。
要は、アメリカのどのような社会環境が動物を生み出し、日本のどのような社会環境がスノビズムを生み出したのかということ。これはちょっと思いついただけなので先行研究的な文献がすでにあるのかも知れないけれど、私はそれは国土の面積、「国家」としての歴史の蓄積の多寡、中央集権制の強度、などが規定した流通の発達具合の違いが原因だと考えている。

  • 視野について

先日「SITE ZERO」について言及した*5ドミニク・チェンがかつて別のところで言っていたことだが、ものを考えるときには「分解能・解像度*6」を導入することができる。*7。解像度はなんらかのコンテンツを制作する側が開拓する単位であり、対して分解能はそのコンテンツを受容する側に関連する単位である。いわゆる視野狭窄を問題にする議論、あるいは認知限界に関する議論の前に、この種のインターフェース開発とその普及についての議論が必要だろうということだと私は理解している。
インターフェースについてのこの問題意識は、それが可能にするであろう精緻さにおいて「動物と公共」をめぐる議論に効果的に寄与しうるだろう。というのは、「近代的な人間」の崩壊には、私見だが、認知限界を超える規模のメディアの前景化があるからだ。巨大化し多様化したメディアによって、人々がアクセスしうるテクストは計り知れないほど古いものから、生産され続け蓄積され続ける無数の現在のものまで、広さにおいても深さにおいても、端に「未曽有」と言っても足りないほどの規模で提供されている。いわば完全に不必要なレベルにおける解像度の追求が、自動化され加速化しつつ現在もなお進行中なのである。この解像度に対応する分解能をもったインターフェースが「可能か否か」という議論をするならばそれは近代的な問いに過ぎなくなる。
超絶的な努力と真摯さでもってほぼ無尽蔵にも思われるテキストを呑み込み、常に増え続けるそれらのインプットを驚異的な演算能力で処理し、それらすべてに対して誠実な対応=アウトプットをする、というのが近代的な理想の「人間」であり、「人間」とはそれが可能だと思われていた。これは完全に、メディアが相対的に閉じられていている場合にのみ想定可能なイメージであって、大塚らがインターネットを忌避するのもこれに関連させて考えたくなってしまう。それはさておくが。この情報過多な状況にあって、自分が摂取すべき情報を、古典的なもの・権威づけられたもの・歴史的なものに限定したり、性的なものに限定したり、資本主義経済に最適化されるものに限定したり、あるいは限定にルールを自分では設定しないが環境的な限定をそのまま受け入れたり、なんらかの「限定」をする態度は総じてポストモダン的だと言えるだろう。「最適化」を是とするならば、それぞれの限定の枠内においてそれぞれの「分解能」を洗練ないしはアップデートすればそれで足りることになる。
正直なところ、この時点のチェンは、分解能の最適化の普及と、その普及のための方策の検討までしか問題化できないのではないかと私は思っていた。それであれば議論の深度ないしは深化方向への速度の違いはあれど、『動ポモ』における保守的・現状肯定的な面での東と大差なく、いたずらに専門用語を使用している分だけチェンのほうがナイーブだとすら思われた。
だが今回の「SITE ZERO」の企画主旨にあるような「モダン」「ポストモダン」に対する「proモダン」の提示*8は興味深かった。膜とフィードバックにおける、自壊を前提とする現前性とその再帰性、その複数性と複雑性について、哲学的にミクロに思考することは、宮崎裕助による「吐き気」論、および今回の「SITE ZERO」に収録されている「決断主義なき決定の思考」やマラブーの論考にみられるように、後期デリダが提示した超近代的な(「アポリア」の決定不可能性と対決するような)人間性を踏まえ、かつそこから出発しているという点で、東の『存在論的、郵便的』に並ぶ仕事を一面では可能にすると思われたからだ。







あと動物といえば近刊でかなり欲しい本がある。ジュンク堂池袋店とかではレジ向い壁どまんなかに面陳+平積みとかされてて購買欲をものすごくそそられたのだが高くて手が出せなかったんだけども。でもほんとにマジで装丁がかっこよくって堪らなかった。こういうアートっぽさを前面に出していないハードな書籍の装丁が凝っているのを見ると嬉しくなってしまう。

動物たちの沈黙―“動物性”をめぐる哲学試論

動物たちの沈黙―“動物性”をめぐる哲学試論

以下参考サイト「ウラゲツ☆ブログ」さまより引用。

★さて本書の魅力は、古代から現代までの西洋思想史を博捜するその展望の広さなのですが、それを伝えるには目次を転記するのが一番だろうと思います。しかし実際のところ、目次自体も本書のボリュームに比して、細かく長大なので、全20部構成の各部各章においてフィーチャーされている思想家たちを列記することで代えさせてください。序文、第1部、第20部は特にフィーチャーされている人物がいないので、それ以外の各部について記します。重複している名前もありますが、そのままを転記しています。

■目次:
序文
第一部:動物の無-言への歩み
第二部:仲介者たち
 ホフマンスタールドゥルーズフローベールレヴィ=ストロース
第三部:変身と輪廻
 オウィディウスソクラテス以前の哲学者たち、そしてプラトンプロティノス
第四部:さかさまの人間主義
 アリストテレスストア派エピクロス派、ストア派ルクレティウス
第五部:人間性の侵犯
 オルペウス教徒、キュニコス派ピュタゴラス派/ポルピュリオスプルタルコス
第六部:ギリシア的な優しさ
 テオプラストス/プルタルコス/テオプラストス、プルタルコスアレクサンドリアフィロン懐疑主義
第七部:生贄の時代
 モース、バタイユ古代ギリシア人/ユダヤ教
第八部:子羊の勝利
 キリスト教クローデル、ブロワ
第九部:噛み合わない論争
 アウグスティヌスデカルト/マルブランシュ/ベール
第一〇部:錯乱と夢
 ベーコン/ブージャン、デカルトライプニッツ/レペ、コンディヤック、ラ・メトリ、ルソー
第一一部:さまざまな境界
 モンテーニュシャロンガッサンディ、ラ・フォンテーヌ、ベルニエ/ロック/ライプニッツ
第一二部:ああ! でも人間は、人間はだね……
 ヒューム/ビュフォン/コンディヤックディドロ、モーペルチュイ/ラ・メトリ、エルヴェシウス
第一三部:苦しみと思考
 ブリエ/ルロワ/マンデヴィル、ルソー/メリエ/ヴォルテール
第一四部:再確立
 ルソー/ヘルダー/カント/フィヒテヘーゲル
第一五部:似たものによる実験
 クロード・ベルナールダーウィン
第一六部:本来の意味と比喩的な意味
 ショーペンハウアーニーチェミシュレ
第一七部:動物は世界をもっているか?
 フッサールメルロ=ポンティハイデガー
第一八部:存在あるいは他社の彼方に
 レヴィナス、ラヴァーター/アール、リシール、フランク、デリダ、ダストゥール/デリダデリダ
第一九部:重苦しい気分
 アドルノ、ホルクハイマー/デーブリーン、シンガー、グロスマン、プリモ・レヴィ
第二〇部:眠れる森の動物たち
訳者あとがき
人名索引

*1:私は未読だけれど、それぞれの対談は掲載時にだいたい読んでる

*2:動物化」と「公共」を焦点化するために簡潔にしているのかも知れないが

*3:当然ついでに書いておくが、それぞれの立場の総体性を大塚・東がそれぞれ代表している、とは私自身も考えていないし、実際にもそうではない。私は単純化するとそれを全体化してしまう傾向があるので自戒の意味も含めて。

*4:もっとも、動物化と公共性を考えるにあたってインターネットの存在感をどう捉えるかというのは象徴的には非常にわかりやすいのだが、同時に誤解を招きやすい。私が大塚を支持したいと思ういくつかの点のひとつには、インターネットに対する評価として、インターネット利用者の絶対的な少数性を忘れないようにしている、ということがある。ここでも語弊があるのだが、東はおそらくインターネット利用者の絶対数の多寡については問題にしておらず、ネット利用者に留まらない「影響力」について考えているということは言えると思うのだが。このことは、東浩紀が結局のところネットでの発言よりも紙媒体を中心とした、よりレガシーな媒体での仕事を優先していることが証明していると思う。また「新現実vol.5」について言えば、ほとんど動物化している柄谷に対しては卑屈なまでに迎合的に語り、対して、立場的な対立の表明を避けないという意味ではきわめて近代的な東に対してはきわめて無理解な態度で語る大塚の、編集者としての、またひとつの編集者のありかたという限りでの批評家としてのバランス感の絶妙さは驚嘆に値すると言えるのではないだろうか。

*5:表紙は両表紙で背表紙がないため、表紙デザインが2パターンあるということでした。一冊買えば十分ということでたいへん安心したw

*6:英語ではどちらもresolution

*7:もっとも、このリンク先のチェンの発言には違和感がある。言うまでもなく『動ポモ』の東も指摘していたように、萌えオタクたちに代表されるポストモダン的な人々はそれぞれ独自の分解能を発展させてきているからだ

*8:ここには言外に「モダン以前=preモダン」に対する批判的な目配せも当然ながら推測できる