サイバースペース〜をようやく読了

現在のメディア論的状況の前提を了解するのには非常に重要な論考だと思われるんだけど、どうしてこんなにもマイナー扱いなんだろうか。非常に不思議。もっとも、非常に速足での展開なので各所で原書にあたって諸々批判する必要はあるだろうと思われる。いわば「21世紀メディア論序説」といった感じか。
ベンヤミンチューリングラカンの同時代性を、ジジェクボードリヤール、そしてディックの小説やデリダの思想を引きつつ解き明かし更新しようとする。その更新作業については『動物化するポストモダン』『ゲーム的リアリズムの誕生』『ゼロ年代の想像力』『アーキテクチャの生態系』に引き継がれていると言えるだろうが、これらがいずれも日本のそれぞれ局所的な事象を論じているに過ぎない(しかしまたいずれも奇妙なことにその局所性を否定しようとするのだが)*1のに対して、マクロ的な状況およびその前提が論じられている「サイバースペース〜」は、何度でも参照すべき原論としてやはり再読必須なんじゃないだろうか。

ちなみに、私としてはこの論考が重要なのは二通りあって、ひとつは通常は音楽の問題とされている「ヴィジュアル系」(あるいはブラックメタルナードコアや、たぶんアイドルについて)のアーティストの在り様を考察するためにメディア論的状況論が欲しかったこと、もうひとつはポップアート以降あまりに理論的に拡散してしまっている「現代アート」の批評のためにはやはり認識論の更新が必要だと思っていることが挙げられる。もちろんこの両者は通底しているのだけれど。

ところで、東浩紀がどうしてこの論高のあと、迷走のような状況に陥ったのか(あるいはその後、現在のような「成功」ないしは「一人勝ち」を用意しえたのか)についてここのところよく考えてしまっている。似たようなエントリが続いている気もするが。
この「サイバースペース〜」論考じたい、後半は明瞭さを増しながらも簡潔さに堕しているように思われたのだが、これは「批評空間」あるいは『存在論的、郵便的』の読者以外にもアプローチしようとしたため(その動機についてもいくつか推測しえるのだけれど)*2ではないだろうか。

ともあれ、最近は東浩紀について書き過ぎた。反省しています。

情報環境論集―東浩紀コレクションS (講談社BOX)

情報環境論集―東浩紀コレクションS (講談社BOX)

*1:もっとも、具体的には論じられていないながらも、たしかにそれぞれの著作にはその対象とされた具体的事象を超えるマクロな射程が確かに認められることも否めない。ともあれ、そのマクロな射程を測るにあたっても、結局は視野を広く取っている「サイバースペース〜」が良い参照先になることも事実だろう。

*2:読者の不在というよりは、柄谷や浅田といった当時のビッグネームが輝きを失い、読者としての東にとって日本の批評の「空間」が刺激的でなくなってしまったのではないかとも思う。←これは、「日本の批評の空間」において東がビッグネームで在り続けている「ゼロ年代」の読者たちにとってはちょっと思いつかないのかも知れないとか余計なことを勘ぐって書いてみた。

精神分析とアート

サイバースペース〜」でも書かれていたのだけれど、ベンヤミンの「複製技術時代における芸術作品」という論考において「視覚的無意識」という概念が、ラカン鏡像段階論やコンピュータの基礎理論となるチューリングの論考と同時に登場したことは興味深い。もちろんこれらは単なる偶然なんだろうけれども、これらの偶然を用意した必然や事実も認めるべきだろう*1。特にベンヤミンラカンとは大陸系の哲学的背景を共有している。あるいは、大陸系というよりもむしろパリに滞在することが多かったベンヤミンラカンが「パリの」哲学的背景を共有していたというべきだろうか*2

*1:こういった偶然の一致を強調し過ぎるあまり、「サイバースペース〜」自体がちょっと不必要に胡散臭げな運命論的な雰囲気を帯びてしまっていることは書き留めておいてもいいだろう。売文の書き方としてはちょっとカッコいい書き方ではあるけれども。

*2:ウィキペディアによれば、ベンヤミンの「パサージュ論」を預かったときの図書館の司書はバタイユだったらしい。バタイユラカンとは周知の通り親しい友人であった