上記に関連して
リアリズムの問題は不勉強なままで書いてもこっけいなだけかも知れないけど、一面的には*1認識論の問題であってメディアが認識にかかわっているという意味では、メディア論が不可欠になってくる。そういう意味では、たとえば大塚英志の言う「マンガ・アニメ的リアリズム」というのは、「マンガ・アニメ」というメディアを介した認識論の話であり、また東浩紀の「ゲーム的リアリズム」というのは(日本の、という限定がつくかも知れないけれども)「ゲーム」*2を介した認識論ということになるのかも知れない。それぞれに語るべき特性があり、そのあたりは個別に論じられている著作を読むべきだと思う。キットラーの『グラモフォン〜』の上巻をちょうど読み終えたところなので、このあたりと絡めていきたい。
蓮実重彦による『グラモフォン〜』批判は、乱暴に言えば無声映画をまるまる無視していることに対して行われていた。キットラーの意見(グラモフォンによる波形としての聴覚認識と、フィルムによる切断としての視覚認識と、タイプライター的な書字認識との対比)から逆に無声映画の価値を引き出すとして、その価値が現代にもなお有効であるとしたら、僕はそれは実はマンガやラノベやヴィジュアルノベルとかその辺に該当するのではないかと思っている。特にヴィジュアルノベル(っていうの?たぶん東浩紀や死に舞君が「ゲーム」と呼んでいる紙芝居的なヤツ)なんかは、視覚・聴覚・文字とがいったんばらばらに分解されて再構築された画面推移を持っていて、その分解・再構築の結果として生じているような「隙間」に魅力の源泉というか動力源があるように思われる。