『アンチ・オイディプス』読みだして3日目
まずはおさらい。
第一節から

生産はそのまま消費であり、登録なのである。登録と消費は直接に生産を規定しているが、しかも生産そのものの真っ只中で生産を規定している。だから、すべては生産なのだ。ここに存在するのは、生産の生産、つまり能動と受動の生産であり、登録の生産、つまり分配と指標の生産であり、消費の生産、享楽と不安と苦痛の生産なのである。すべてはまさに生産であるから、登録はただちに消費され消尽され、この消費は直接に再生産される。これがプロセスという言葉の第一の意味である。すなわち、登録と消費を生産そのものの中に組み込むこと、登録と消費を、同じひとつの過程の中の生産とみなすことである。

これがプロセスの第二の意味である。因果や包含や表現などといった関係(原因−結果、主観−客観)において捉えられるとしても、自然と人間は、相互に対面する二項のようなものではなく、むしろ唯一の同じ本質的な実在であり、生産するものと生産されるものは一体をなしているのだ。プロセスとしての生産は、あらゆる観念的カテゴリーをはみだすものであり、欲望を内在的原理としてひとつのサイクルを形成している。

欲望的生産は唯物論的精神医学の現実的カテゴリーであり、この精神医学は分裂者を<自然人>として定義し、あつかう。ところが、これにはひとつの条件があり、これがプロセスの第三の意味を構成することになる。つまりプロセスは、目標や目的と考えられてはならないし、プロセス自身を無限に継続することと混同されてもならない。プロセスの目的化、あるいはプロセスの無限の継続は、厳密にいえば、そのプロセスの早すぎる無謀な停止と同じことであり、それは病院で見られるような、人工的な分裂症者、自閉症化して廃人になり、臨床実体として生みだされる存在をつくりだす操作にほかならない。

以上を踏まえたうえで先に読み進めたい。