第一章 欲望機械
第三節 主体と享受

「プロセス」ということばの意味にしたがうなら、生産の上に登録が折り重なるといっても、この登録の生産そのものは、生産の生産によって生みだされてくる。同様に、この登録に消費が続くのであるが、消費の生産は登録の生産によって、また登録の生産の中で生みだされるのだ。

おそらく、欲望的生産はすべて、すでに直接的に消費であり、したがって「享楽」なのである。

パラノイア機械と奇蹟を行う機械に続いて新しい機械が現われる。この新しい機械を示すために、「独身機械」という名前を借りることにしよう。この機械は、欲望機械と器官なき身体との間に新しい縁組を実現し、新しい人類を、あるいは輝かしい有機体の誕生をうながすのである。

ミッシェル・カルージュは、彼が文学作品の中に発見したいくつかの幻想的機械を「独身機械」と名付けて、他から区別した。彼があげている例は実に多様であり、一見、同じカテゴリーの中に入りうるものとは思われない。デュシャンの『裸にされた花嫁…』、カフカの『流刑地にて』の機械、レーモン・ルーセルの諸機械、ヴィリエ・ド・リラダンの『未来のイヴ』等々。考察された例によって重要さは異なるが、これらの機械をひとつにまとめる特徴は次のようなものである。まず第一に独身機械は、拷問、暗い影、古い<掟>を具えていることによって、古いパラノイア機械を示している。ところが独身機械そのものは、パラノイア機械ではない。歯車、移動台、カッター、針、磁石、スポーク、といったあらゆるものが、独身機械をパラノイア機械から区別するのだ。拷問や死をもたらすときですら、独身機械は何か新しいもの、太陽の力を表している。第二に、独身機械のこのような変貌を説明するのは、機械が内に秘める登録によって機械に与えられる奇蹟的性格ではありえない。たしかに機械は、最も高度な登記を内に秘めているとしても(『未来のイブ』(ヴィリエ・ド・リラダン)において、エジソンがもたらした登録を参照すること)。ここには、新しい機械によって行われる現実の消費があり、自己性愛的とも、あるいはむしろ自動的とも名付けうるような快楽があり、そこで、新しい縁組による婚礼が行われる。新しい誕生、目もくらむような恍惚、まるで機械のエロティシズムが、他のもろもろの無制限な力を解放したかのように。

独身機械は何を生産するのか。独身機械を通じて何が生産されるのか。

その答えは、強度〔内包〕量ということであるように思える。ほとんど耐えがたいほどの、純粋状態における強度量の分裂症的経験が存在するのである。―最高度において体験される独身状態の悲惨と栄光、つまり生と死の間に宙づりになった叫び声、強度の移動の感覚、形象も形式もはぎとられた純粋で生々しい強度の状態。

器官なき身体の上のもろもろの離接の点は、欲望機械の周囲にいくつかの収斂する円環を形成している。こうして主体は、欲望機械の傍に残滓として生産され、機械に隣接する付属物、あるいは部品として、円環のあらゆる状態を通過し、ひとつの円環から次の円環へと移ってゆく。中心は機械によって占められ、主体自身は中心にいるのではなく周縁に存在し、固定した自己同一性をもたない。それは常に中心からずれ、自分が通過する諸状態から結論されるものでしかない。(「結論される」に傍点)

要するにパラノイア機械と奇蹟的機械によって、器官なき身体の上に様々な割合で反発と吸引が生じ、これが独身機械の中にゼロから始まる一連の諸状態を生みだす。主体は、この一連のそれぞれの状態から生まれ、そして一瞬のあいだ主体を規定する次の状態において、たえず生まれ変わるのだ。主体はこうして、自分をたえず誕生させるこれらの状態をすべて消費するのである(生きられる状態の方が、この状態を生きる主体よりも根源的である)。