『アンチ・オイディプス』10日目
第二章 精神分析と家族主義、すなわち神聖家族
第四節 登録の離接的総合

家族的三角形化は、ひとりの「私」が同時に親子の世代と性別と生死の状態について、自分を区別する座標を受けいれるための最低限の条件をあらわしている。

分裂症者は離接的総合を矛盾の総合に代えるのではない。そうではなくて、離接的総合の排他的、制限的使用をその肯定的使用に代えるのである。彼はあいかわらず離接の中にあり、そこにとどまっている。彼は、もろもろの矛盾を深めることによってこれらを同一化し、離接の働きを消滅させるのではない。反対に彼は、不可分の距離を飛び移りながら、離接の働きを肯定するのだ。彼は単に<男女両性>でもなければ、男性と女性との間に存在するのでもなく、また<中性体質>でもなく、横断的性なのである。彼は横断的生死であり横断的親子である。彼は、二つの対立項を同一項に同一化するのではない。そうではなく、彼は、異なるものとしての対立項を相互に関係づけるものとして、二つの項の間の距離を肯定する。彼は矛盾に対してみずからを閉じるのではなくて、逆に開くのだ。

ラカンのいう<対象a>は、地獄の機械〔仕掛け爆弾〕として構造論的な平衡の只中に侵入する。それは、欲望機械なのである。