『アンチ・オイディプス』十八日目

第三章 未開人、野蛮人、文明人
第四節 精神分析と人類学

占者と医者とは、たえず政治的経済的なもろもろの単位と関係づけて、欲望を解明しようとする。―ところが証人たちのほうは、まさにこの点において占者と医者を欺こうとするのである。

じじつここでは、オイディプス的構造は閉じることができず、三角形の各項は、争っている場合も、妥協している場合も、いずれにしろ圧制的な社会的再生産の代理者たちに固着したままなのだ。

ただし二つのことは、どちらも事実なのだ。被植民者はオイディプス化に抵抗する、そしてオイディプス化は、被植民者を再び閉じこめようとするのである。

文化主義者たちと正統的な精神分析家たちの間で果てしなく続けられた有名な議論に戻ることにしよう。オイディプスは普遍的なものなのか。それは偉大なカトリック的な父の象徴であり、あらゆる教会を統合するものなのか。この議論はマリノウスキーとジョーンズとの間で始まったものであるが、その後、一方はカーディナー、フロム、他方はローハイムといった陣営の間で続けられた。さらに、この議論は幾人かの人類学者とラカンの若干の弟子たちの間にひきつがれた(これらの人々は、単に、ラカンの説にオイディプス的解釈を与えたばかりではなく、この解釈に民族学的な拡がりを与えた)。

解釈するということは、信仰をもち、敬虔であるための現代的な仕方である。

まず始めに抑圧されるものは、オイディプス的表象なのではない。抑圧されるものは、欲望的生産なのである。この欲望的生産から、社会的生産や再生産の中に移行しないものが、抑圧されるのである。

抑圧されるものは、社会的生産や再生産の中に無秩序と革命を導入するもの、欲望のコード化されないもろもろの流れである。逆に、欲望的生産から社会的生産に移行するものは、この社会的生産を直接に性的に備給することになり、それは象徴システムの、またこのシステムに対応する情動の性的な性格を抑圧することもなければ、またとりわけオイディプス的表象にはかかわりをもつこともない。

ある点からは、あらゆる社会組織体をオイディプスの観点から問題にすることは正当なことである。しかしそれは、オイディプスが、とりわけ私たちにおいて発見される無意識の心理であるからではない。ぎゃkに、オイディプスが無意識の本性をくらます欺瞞であり、この欺瞞が私たちにおいて成功したのは、先行する社会組織体を通じて、その部品や歯車を組み立てているからでしかない。この意味で、オイディプスは普遍的なものである。だから、オイディプスの批判は、まさに資本主義において、つまりオイディプスの最も強力な水準において、たえずその出発点を取りあげ、その到達点を見直していかなければならないのだ。

ほんとうは、オイディプスが普遍的なのは、それが、あらゆる社会につきまとう極限の置き換えであり、つまり置き換えられた表象内容であるからだ。この表象内容とは、すべての社会が自分の最も深みにある否定的なものとして絶対に恐れているもの、つまり欲望の脱コード化したもろもろの流れを歪曲するのである。

今日、人類学者たちが、物神〔呪物〕をめぐる仮説的概念に新鮮な興味をもっているのは、確かに精神分析の影響によるものである。しかし、精神分析はこの観念に注意する根拠ばかりではなくて、この観念を疑う根拠をも彼らに与えているといえる。なぜなら、これまで精神分析は、まさに物神〔呪物〕について、<ファルス‐オイディプス‐去勢>を語ってきたからである。ところが、一方で人類学は、物神の使用が個人的で私的であるときさえ、そこにはこの物神と不可分な政治権力、経済力、宗教的勢力などの問題が存在することを感じとっている。

問題は、性愛とリビドー備給との関係をいかに把握するかを知ることである。この両者は、ある出来事、つまりある「恨み」に関係づけられるべきものなのか。「恨み」とは、純粋なシニフィアンの何おいて構造論的に解釈される場合でさえ、やはり家族的で親密なもの、親密なオイディプスの恨みにとどまることになるのだ。それとも、この性愛とリビドー備給は、ある歴史的社会野の諸規定に対して開かれるべきものなのか。ここでは経済、政治、宗教は、パパ‐ママから派生したものではなく、リビドーによってそれ自体を目的として備給されるもである。

ひとつの象徴、ひとつの物神〔呪物〕は、欲望機会の表出なのである。