アンチ・オイディプスと現代日本美術史論

『アンチ・オイディプス』が主題にしている「オイディプス」主義批判は、現代日本美術史論と相性がかなりいい。
「日本はアメリカに凌辱され、成人することができない子供のようだ」というような考え方、特にそのあとに「日本はどのようにしたら成人できるのだろうか」という問いを続けてしまう考え方への回収を避けるためには、この本は格好の手引きだと思われる。このあたりは真面目に現代美術論をフォローした人なら思いつくことかも知れないけれども、だとしたら、なぜ未だに21世紀のいま、あらためて「大人になれ」的な言説が大手を振っているのかぜひ明確に教えてもらいたいものだ。
おそらく「子供のような部分を(捨て去らずに)武器にして大人たちの市場」で戦っていくことが、「子供のような部分を捨てて大人として市場に参入する」だけの態度を補完するものとして採用され、その限りで日本人であっても「大人になれる(なるべきだ)」という言説が可能になるのだろう。
(少なくとも俗流の解釈における)ガタリ主義は「オイディプス主義はダメ、幼児性や多形性や非完全性を肯定するべし、それが資本主義世界に適応する最良の手段だ」と言うけれども、当然そう主張するだけでは資本主義世界に打って出ることすらできない(「基地外」ということで隔離されてしまうのがオチだから)。幼児性を保持したまま、それを売買できるところに進出しなければならない。これは上記に引用したとおり、まだ『アンチ・オイディプス』の議論の圏内にある考え方に過ぎない。
この本が発表されてから数十年が経過しているわけで、読者たちがまったく無為に読後を過ごしているとは考えにくい。この数十年で、どのような議論が進められてきたのか。きちんと考え直したいところではある。