『自我論集』「子供が叩かれる」より

性倒錯はエディプス・コンプレックスから由来するものであることが一般的に確認されるとすれば、エディプス・コンプレックスの重要性が、さらに高まることになる。我々は、エディプス・コンプレックス神経症の本来の中核であり、エディプス・コンプレックスで頂点に達する幼児期の性倒錯が、神経症の真の条件であると考えている。そして無意識の中におけるエディプス・コンプレックスの残滓が、成人の神経症の発病の素因となるのである。すると叩かれるという空想や、その他の同様な性倒錯的な固着は、エディプス・コンプレックスの<沈殿物>、あるいは<傷痕>にすぎないことになる。悪名高い「劣等コンプレックス」が、ナルシシズム的な<傷痕>にすぎないように、あるプロセスが終了した後に、この種の<傷痕>が残されるのである。最近マルチノウスキーは、この種の見解を巧みに表現しているが(「劣等感のエロス的な起源」『性科学雑誌』第四号、一九一八年)、わたしはこれを全面的に支持するものである。

最初の理論には名前がない。この理論は何年も前に、その当時ごく親しく付き合っていた同僚が私に提唱したものである。この理論は些事に拘らない単純さのために非常に魅力的な理論で、その後の文献において、わずかに暗示される以外にほとんど言及されることがないことを、訝しく思わざるを得ないほどである。この理論は、すべての人が両性的な素質をもつと主張するもので、どのような人にも男性の性格と女性の性格があり、この二つ性格の間の闘いが、抑圧の動機になっていると主張する。この理論によると、その人物の中で育成されてい優位になった性別が、劣位となった性別の心的な代表を、無意識のうちで抑圧する。無意識の核心にある抑圧されたものは、すべての人間において、その人物の優位の性の反対の性に関するものであると考えるのである。こうした理論が意味をもちうるのは、人間の性別は、性器の形成によって決定されると想定する場合に限られる。それでなければ、その人物の優位な性とは何かが不確定になり、その調査の結果として得られる事実[優位な性]を、調査の出発点において前提としなければならないという循環論に陥る危険があるからである。

第二の理論はもっと新しいものであるが、両性の間の闘いが抑圧にとって決定的な意味をもつと考えている点は第一の理論と共通する。しかしその他の点では、第一の理論とは対照的である。この理論は生物学的な基礎ではなく、社会学的な基礎に基づくものである。アルフレート・アドラーが提唱したこの「男性的な抗議」の理論は、すべての個人は劣等の「女性的な系列」から離れ、「男性系列」に向かって進もうと努力するのであり、満足を得られるのは、この「男性系列」だけであると主張する。アドラーはこの「男性的抗議」の理論によって、性格の形成と神経症の形成を一般的に説明できると考えている。あいにくながら、アドラーはこの二つの区別すべきプロセスを明確に分けていないし、抑圧という事実そのものを十分評価していないので、男性的抗議の理論を抑圧に適用しようとすると、誤解を生む可能性がある。こうした理論では、女性的な系列から離れようとする願望である男性的抗議が、すべての場合において抑圧の動機となってしまうと思われる。すると抑圧するものはつねに男性的な欲動興奮であり、抑圧されたものはつねに女性的な欲動興奮であることになる。さらに症状も女性的な興奮の結果となってしまう。

人間の古代的な遺産が、心的な無意識の核心を構成しているのであり、その後の発展段階へと進歩する際に、新たに形成されたものと両立できず、これを損ねるか、無益であると判断されたものに、抑圧プロセスが働きかけるのである。この選択が円滑に行われる欲動群がある一方で、うまくゆかない欲動群もある。このプロセスがうまくゆかない欲動群が性欲動である。すでに何度も指摘した特別な状況のために、性欲動は抑圧の意図を挫き、妨害的な代償形成によって、みずからを主張することができるのである。このため、抑圧の対象となる幼児期の性生活が、症状の形成の主要な駆動力となり、その本質的な内容であるエディプス・コンプレックスが、神経症の革新的なコンプレックスとなるのである。

やはりアドラーは興味深い。あとラカンの弟子による『子供が殺される』も併せて読まなければ。
参考:http://site-zero.net/_review/2006_5/

子どもが殺される―一次ナルシシズムと死の欲動

子どもが殺される―一次ナルシシズムと死の欲動