SITE-ZEROの文章より

ルクレールの創意は、「徴」を「性感的差異」la différence érogèneないし「快感の隔差」l'écart du plaisirの身体への記入として捉え返すことで、「文字」をセクシャリティの問題系へと接合してみせたことにある。本書第4章「文字の身体、または対象と文字との絡み合い」において、彼は、「差異の印としての文字は一貫した性感的身体を構成するという限りで、このように考えられた文字の扱いは、たしかに快感の経済へのもっとも直截な導入口である」(90─91頁)と述べている。ルクレールによれば、「身体」とは「文字としての諸特徴の総体」であるが、彼はそれを「性感帯の集合として捉えられた身体」として位置づけるのである(82頁)。このような論点は、身体への「徴」の記入の特異性を記述することで、個々の性感性が確立するプロセスを明らかにするとともに、セクシャリティが「器官的秩序」によってあらかじめ決定されたものではなく、「文字」の書き込みとその解読が孕む偶然性へと開かれたものであることを示唆している。「性感帯的身体」を「器官的秩序の転覆」を行なうものとして考察するルクレールの所説は、精神分析理論の再検討を通じて、性的身体の形成という問題に取り組もうとするクィア理論、例えばジュディス・バトラーの著作を読解するための手がかりともなりうるのである。

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