テヅカ・イズ?

思うところあってまた『テヅカ・イズ・デッド』を読み返している。「キャラ」という概念について考えるため。いろいろと思うところがあるけれど、今回は引用を中心とする。ちなみに「フレームの不確定性」はマンガだけに留まるべき概念ではないし、フレームの不確定性を説明する際に言及している映画理論は一面的に過ぎる気がする(なにより、具体的な映画作品が一本も参照されていないのではないか)。映像に対するエフェクトにも、サウンドトラックにも触れられていない。映像に対するエフェクト(画面の分割を含む)とサウンドトラックこそは、映画(とすべての映像表現)におけるフレームの不確定性につながる要素ではないか。そして何より、アニメにおいては。
それでもなお「フレームの不確定性」は重要な指摘だと思うので、いち読者として真摯に追究したいところ。なお、竹内オサムを攻撃するあまり「フレームの不確定性」の議論がそうとうわかりにくくなっているようにも読めた。伊藤剛氏の議論の強度については私は疑念がないものだと思うが、学問を蝕む腐敗に対して敢えて糾弾しようとするスタンスはよくわからない。よくわからないが必至で大変そうだなとは思った。数年後にこういったノイズを除去した、よりスマートな議論が可能になることを祈るばかりである。

また、フレーム内の人物の視線がフレームの外に向けられることは、観客がフレームの外にも「物語世界」が連続して存在していると見なす大きな要因となる。直接、見ることのできない「世界」が、しかし存在していると見なすことが、物語世界のリアリティを大きく支えている。

「フレーム」には2つの意味がある。観客(読者)にはどうにもならず、前もって「世界」を切り取っている枠という広い意味と、もう一つ、その事前に世界を切り取る装置が「カメラ」であるという映画固有の狭い意味である。

耳男の「死」が衝撃的たりえたのは、その死がもっともらしかったからではなく、キャラがかわいかったからである。

キャラクターは必ずその基盤に「キャラ」であることを持つ。

(足立典子「これは仮定だけど、そんなときは僕……」より)
「コマ」という映画的なカット&モンタージュの変種で語る「まんが」は、機械としての「キノ・グラース」と近代小説の「内的モノローグ」を、おどろくべき自然さで同化することができる。語り手は、コマそのものの大きさを自在に変え、ときにはコマの枠をひらくことによって「機械の眼」を心理描写へと相対化し、登場人物の視点になった直後に、再び表情をとらえるだけの「カメラ」にもどる。

また、このような「多層的なコマ構成」では、「言葉」がまさに「詩的」な意味を持つ。それは登場人物たちの「内面」の饒舌ともいえる「語り」を呼び込む。

ちなみにJUNEはマンガと小説だけでなく、映画や音楽(とくにヨーロッパのトーキー映画とロック音楽)からも影響を深く受けている文化圏に属していた。トーキー映画における内言やサウンドトラック、ロックカルチャーにおける「エフェクト」の感覚は、古典的な「フレーム」概念から相当激しく逸脱するものだということを覚えておきたい。なお、足立典子は主観と客観とが入り混じるJUNE小説に対して、あまりにも「ナイーブ」に(ただ、どちらが本当に「ナイーブ」なのかは微妙なところだが)、主客の古典的な二項対立による批判をしているように思われる。主客がグズグズに溶け合い入り混じるところが、JUNE系の面白みではないのか……

(キャラの定義)
「人格・のようなもの」としての存在感を感じさせるもの

「キャラ」とは「キャラクター」に先立って、何か「存在感」「生命感」のようなものを感じさせるものと考えられる。

「キャラ」とは、「キャラクター」から区別するために用いられる名称で(中略)”Kyara”という

(キャラ=)「マンガのおばけ」とはつまり、身体を欠いたまま感情だけを純粋に媒介/生成するものと考えることもできるだろう。そして、いうまでもなく文字/言葉が媒介/生成する、近代的な意味での「主体」とも異なったものである。ただ、それがどう「異なっている」のかについての議論は、まだ控えておくことにしよう。性急に答えを求める態度はよくない。

この「キャラ」という概念は、作業仮説として「前キャラクター性」=「人格・のようなもの」を可視化させるためになかば無理やり導かれたものなのではないか。

「キャラ」たちは、自分の「感情」が植えつけられた偽物だと知りながら、それでも「いま・ここ」で生じる感情を「かけがえのない」、唯一のものとして慈しんでいるのである。たとえ私という主体は偽物であったとしても、「感情」は唯一無二のものだということだ。よって、これを「本物」と区別することはできない。

「偽物/本物」との区別が消失するところで(実存的な?)「感情」の唯一無二性が語られるのは、どこかとても危険な匂いがしつつ、そして非常に現代的に切迫したリアリティを感じる。ここから、KYな「キャラ」が固着してしまった親オタク的な人々(というよりも現代的にメディア漬けになっている人々)の精神に接近することは可能かも知れない。

もしここに「マンガ的主体」というものを(あるいはアニメ・マンガ的リアリズムといった概念とセットにして)考えたとして、そこにはどのような「成熟」があるかということを考えなければならないのである。

いや、ほんとうにそこに「成熟」はあるのだろうか。そしてここで「成熟」はほんとうに求められているのか。そしてそれは何故か。

そういえば、この「キャラ」を「キャラクター」と区別しない場合、荻上×宇野対談(http://d.hatena.ne.jp/seijotcp/20080224/p2)の下記の発言が衝撃力を持つのではないか。

つまりオタクは、キャラクターが物語から独立して存在するということを、この3次元の世界でも信じている人たちなんです。だから彼らが浮くのは、自分の中で出来ているキャラクターを、あらゆる場面で通用させようとするから浮いてしまう。

テヅカ・イズ・デッド ひらかれたマンガ表現論へ

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