村上隆について

<想像>的で鏡像的で、不純なるポップ*1
20世紀のロザリンド・クラウスに抗して・添いつつ

いまから約20年前の1897年のロザリンド・クラウスは、そのさらに20年前にあたる1967年にマイケル・フリードが発表した「芸術と客体性」をめぐる討論会にコメントを寄せた。クラウスはそのコメントを「現代的創造活動においては、何であれ批判的なものが捜し求められる場になっているんです。それはつまり、<非想像的なもの>、非鏡像的なもの、ということになるでしょう。それ以外のものはすべて、純然たるポップだといわざるをえません」という言葉で締め括っている。だがこの明快な断言は現在、村上隆の一連の活動によって否定され続けている。
村上隆の作品はポップだ。<想像的>で鏡像的なものたらんとし、そして「純然たるポップ」に漸近しようとしながらも批判的であり、そしてそれを認めさせているように見える。純然たるポップに漸近する、不純なポップの批判性とは。

まずクラウスは、1987年の「現在」(私のいる2008年の「現在」も、おそらく)は「ポップ以後」ではなく、ポップ・アートの言辞が使い続けられてきた、ということから語り始める。その「現在(=1987年)」の時点から振り返り、クラウスは、フリードの「芸術と客体性」の奇妙さを指摘し、そこへの注視を促す。つまり、ポップ・アートを含む、その「演劇性」を危惧された諸芸術と、フリードが擁護しようとした諸芸術とが、共犯関係にあったというのだ。

1972年のレオ・スタインバーグの「もうひとつの基準」という論文においては、フリードが擁護しようとしたポスト・ペインタリー・アブストラクション*2が標的や楔形や縞を扱った絵画を例にとり、フリードが「演劇的」とみなしたポップ・アートにおけるコマーシャル・デザイン的な要素の先取りがあると指摘している。

フリードは擁護したのは、「非物質的で、重量をもたず、蜃気楼のごとく視覚上にのみ存在する事物」というグリーンバーグの提示した形式で説明される「潜在(ヴァーチュアル)」性をもつ領域に留まる作品たちだ。「蜃気楼」つまり「事物を粉々に砕き、あるいは極めて希薄なものにしてしまうことによって生まれる発想」と「形態という媒体」によって、「人は輪郭線を把握できなくなり、そこにイリュージョンが生まれる」とフリードは語る。
その「イリュージョン」がポップ・アートには見い出せない、とフリードは主張したが、しかしウォーホルのシルクスクリーン絵画を例として、クラウスは反論を試みる。そこには「版ずれ」があり、絵画的な表面効果が感じられる、と。「その表面は、そこに描き出されるべき対象物を、絶えず吸い込み、あるいは打ち消して、定めがたき非空間のなかに漂わせてしま」う。クラウスは、ここにまさに「潜在性」が作り出されている、としている。作品を「蜃気楼」のようなものとする、という「イリュージョン」は、このように形態論的な類似によってポスト・ペインタリー・アブスストラクションとポップ・アートとの双方に見出された。

よりクリティカルなのはこのような「作品がそこに蜃気楼のようにしてある」ことと相互に依存して成立する、「彼はそこに居ない」というもうひとつのイリュージョンについての議論である。

蜃気楼は、非事物、非物質、非実在の虚構として、あらかじめ限定された継続的状況のなかに存在しているんです。そのとき観者は、鏡を見るような状況に置かれることになります。そこで彼は、自身の肉体の実在から抽象化され、単一の層をなす知覚的経験の非身体的な担い手として再構成されるわけです。これは魔術のごとく、幻覚のごとく、肉体が関与せずに成立する視覚の経路、さらにいえば純粋認識として寓意化されうる視覚の経路といえるでしょう。ここで私たちが与えられるのは、「非実在」という状況ではなく、むしろ「抽象的実在」という状況なんです。つまり、純粋に視覚的な光として存在する作品と言う「実在」、そしてその前で浮遊する観者という「実在」が設定されるわけです。

実際の鑑賞経験においては、ここで「非」という接頭語をつけられているもの、また「純粋な」と言われているもののすべては、そのような指示語に厳密には回収しきることのできない残余を伴う。クラウスはこのことに触れずに議論を進めている。私の結論を先取りして言うならば、村上隆の作品は、この残余を執拗に指し示し呼び起こすことで、ポップで<想像>的で鏡像的でありながら批判性を常に纏い続けている。

「抽象的な実在」とは、「鏡に映るそれ自体でないもの」に依拠する「依存感覚」によって脱身体化され、純粋に何かを欲望するだけの「主体」であるとクラウスはいう。クラウスによれば、それこそがポップ・アートと、メディアや広告の世界が設定する「主体」でもある。だがそのメディアと広告があふれる世界で、広告とメディアに設定される「主体」が徹底したとき、人は敢えて美術作品の前で「純粋な経験」をしえるのだろうか。

私たちはYesとNoとどちらにも答えられる。

Yes.そこではメディアと広告に設定された「完璧に純粋な経験」を味わうことができます。

No.そこで味わう「純粋な経験」はメディアと広告によって設定されたものなので、純粋ではありません。

だが、No.のほうはいささかうそ寒い印象がある。「純粋」さ自体が、メディアと広告に不可逆に汚染されていることを忘れているようだからだ。

メディアと広告が設定する浮遊する「主体」、常によりいっそうポップで<想像>的で、鏡像的なものとして設定され続ける「主体」、そのような「主体」にとっては、多かれ少なかれ、しかし決定的に美術もメディアと広告によって媒介されている(いや、かつてそうでなかった主体などあっただろうか)。

村上隆*3においては、残余は「世界」のほうにある。

人々は最初から、そしていつでもイリュージョンのなかで浮遊している。村上隆は、メディアの技法と広告の技法を徹底して作品に反映させ、メディアと広告の技法の粋を尽くし、それを観者に徹底的に見せつける。理想的な「メディアと広告の世界」を観者は目の当たりにするのだ。
理想的な世界は目の前にある、では、理想的ではない世界、作品外の世界は?それ自体が皮膜であるメディアと広告はここで突き破られる。メディアの向こう側、広告なき商品、それを観者は探そうとするだろう。そんなものはないのに。
イリュージョン「としての」世界はここで瓦解する。それまで浮遊していた観者は終わりのない墜落を味わう。「そこに彼はいない」ではなく、「ここに私がいる」という経験。
蜃気楼のようで、イリュージョンのようで、あらゆるものが「非○○」であり、また同時に純粋な何かであるような世界、その世界の露骨な図像を前にして、その図像の残余としての世界が、作品を取り巻くものとして立ち現れてくる。性的に暴力的な主体、未成熟で幼稚な主体、弱々しい身体を抱えた主体・・・。
だが観者はすぐに気を取り直す。目の前にあるのは所詮はただの「ゲージュツ作品」である。そこを立ち去れば、日常に戻れば、そこにはいつもどおりの生活が、世界が待ち受けている。いつもどおりの労働が、いつもどおりの性が、いつもどおりの生が。死が。

*1:モダニズムのハードコア』のロザリンド・クラウスを読んでちょっとまとめつつ書いてみた

*2:ポスト抽象表現主義、カラーフィールドペインティングやハードエッジペインティングなど。ケネス・ノーランドやフランク・ステラ、ラリー・プーンズを含む

*3:村上隆はすべてに対してYesと言おうとする。メディアも広告も金融も法律も、力と力のぶつかり合いも。でも彼は「平和主義者」だから戦争にはYesと言わないかもしれない。メディアと広告と金融と法律にどっぷり浸かって無批判的に生きることが大好きな人々は彼に喝采を送るだろう。そしてそれらを批判したい、何か別の道を模索したい人々も、彼の作品に触れ、その「クオリティ」の意味するところを感じるならば、村上を肯定するに違いないだろう。もはや村上にNo.と言えるのは、自分がメディアと広告にどっぷり浸かって生活していることを認められないボンクラか、実際に自分たちだけ高潔を気取ってメディアと広告から身を引き離している人(しかしどうやって村上を知ったのだろうか)か、村上以上の的確さで現代社会のヴィジョンを描き出せる者だけだ。これらの立場に分類されることを避けたい向きには、村上隆は危険すぎるから、無視したり「よく知らない」という態度をとるのが正解だろう。