『歪形するフレーム』より

絵画の巨匠のタブローを模倣する写真は、その模倣に失敗するが、その失敗は絵画の単純で不完全な模倣とは区別されねばならない。ある意味で、その失敗は、機材によって、望まれプログラムされたものなのである。それはバルトが「プンクトゥム」と呼んだ屑を浮上させる。「鈍い意味」「第三の意味」として象徴的で情報的な交換に還元されず、一方で「意味のないもの」、「下らないもの、取るに足りぬもの」として、「他方で「限界、倒錯、おそらくサディズム」と記されることになる屑なのである(ロラン・バルト『第三の意味』)。映像における意味のないものやサディズムのこうした増大は、現代社会に特有なものである。(中略)セザンヌやきゅびすとたちが古典的な造形の空間の破壊を早めることになるのは、写真によって映像にもたらされた変化、つまりヴァルター・ベンヤミンが対象の技術的な複製と呼ぶものであり、無関心であり、意味のないものそのものなのである。

歪形するフレーム―絵画と映画の比較考察

歪形するフレーム―絵画と映画の比較考察