水声通信vol.23林・鈴木往復書簡
複製がになってもあまり多くを失わないような、移動可能なイメージ、そうしたイメージが存在するのではないでしょうか。しかしそれは、エロティックな要素が欲望に働きかけるといっただけのことでもないはずです。
そこかしこに独立した場面が展開していて、全体を一挙に把握することが困難なので、見るものは部分と全体のあいだで引き裂かれて、見るという行為が持続としての厚みを持ってしまうような仕掛けです。もちろん、それでも複数のシークエンスを統括するもう一つ上の審級では、全体の暴力的な、エロティックな、あるいは荒涼とした、等々の印象が支配的だといえるのかもしれませんが、それと拮抗するような細部がつねに存在しているのもまた事実のように思えます。具体的な文脈から切り離されているように見えながら、作品の向こうにある何かを表現するための透明な媒体にも還元しきれず、それ自体として見るものを巻きこみもする、シュルレアリスム美術のそんなあり方をどのように考えたらいいのでしょうか。
あるイメージが、見るものを巻きこむかどうか、これは、おそらく「現実」の身体とはちょっと位相のずれた、それこそ、夢の中の「身体」―現実の身体が眠っているときの―の次元における出来事、というより、夢の中の「身体」が呼び起こされるかどうかだといっていいのではないでしょうか。そう考えたときに、逆に、たとえば本の絵がもつ「スケール」と「サイズ」の違和や、それが現実の空間と切り離されて独自の空間をもつような構造をもっていることは、その呼び起こしを強化する要素として重要なのではないかという気もしてきます。
クラウスは、シュルレアリスムの写真は、反復やずらしや歪みなどを使って、現実のイメージを得体の知れない力の痕跡のインデックスとして書き換える―しかしその先をたどっても起源がわかるわけではないがゆえに、その場に反復的に引き戻されてしまう―という主張を展開しましたが、彼女のこの主張の前提には、シュルレアリスムの写真が、加工された場合でも、かならずその跡が目立たないようにされ、滑らかに統一された空間(準遠近法的な空間)を保持しているということがありました。そこがキュビスムからダダへとい継承されるコラージュにおける写真使用とは本質的に違うところで、滑らかであることによって、イメージはそれが「現実」の像であることを主張し、同時にそこに加えられた変形によって、「外部」の力を指し示すという、引き裂かれた性格を持たされることになります。おそらく、シュルレアリスムのイメージ群において、質の判断ということが可能になるとすれば、この「引き裂かれ」の強度こそが、問題になるのではないかと思います。そして、その意味で、写真というメディアに混在する「現実効果」と「加工可能性」―写真は、本性上、サイズが非決定的なメディアであり、このラディカルな可変性は、絵画をもその力のもとに屈伏させずにおかない―の共存は、その「引き裂かれ」感の増幅を唆すような働きをしたのではないかとは考えられないでしょうか。
↑これは写真だけでなく、さまざまな「録音」技術についても言えることなのではないかと思った。
「本の絵」ということについて、もうひとつ付け加えておきたいのは、(中略)基本的に一対一の私的鑑賞に供されるということです。(中略)本は(中略)画面が小さいというだけではなく持ち運ぶことができるので、その鑑賞の私性はいっそう増します。(中略)そういう私的な空間では、現実の身体の忘却は、フロイトの診療室のカウチではないですが、当然起こりやすくなりますし、「外部」の空間への通路が開きやすくもなるでしょう。(中略)さらに言うと、本には複製を通して公に配布され、その共有を通じて社会的な「現実」を形成していくという性格もあり、その鑑賞の構造の私性―あるいは「ひとり性」―というのは、実は、そのメディアとしての公共性とスパークを起こして、同じ言葉を使うならば、そこに「引き裂かれ」を発生させていく限りにおいて重要だと言いなおすべきかという気もしています。
記号的な性格を色濃く分け持ち、いくらでも移動や反復ができ、それでいて対象の指示に還元させる空虚ではなくて、あくまでそれ自身である、そんなイメージ体験とは一体何でしょうか。どうも考えがまとまっておらず、これはほんお思いつきなので、書いていいかどうか迷うのですが、僕自身は最近こんなことを考えています。「表象」(あるいは端的に「絵」)ではなく、「記号」ともやや異なり、露出した「もの」それ自体(あるいは「場」それ自体?)でもないそれを、「図」という言葉で表現することはできないでしょうか。
ただ、「図」というと平面的で、しかも三次元を二次元に変換したものというニュアンスが強くなってしまいますが、僕はこれをfigure(すなわち「形象=象ったもの」)という言葉で考えていて、たとえば極端な話、マンガやアニメーションのキャラクターのようなものも包摂できる気がしています。
「図」とは見るものである以上に使うものなので、「図」そのものがいいか悪いかというよりも、有効な使い方がなされたかなされなかったかということをこそ考えるべきなのかもしれません。もちろん「図」の有効な使われ方の一つは、それが図示する現実/外部を異なったものに見せることなのですから、「引き裂かれ」の感覚派その有効性の指標になります。
↑エロマンガのことを思い出した。